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2008年札幌エスペラント会通信 Novajxo de Sapporo
Esperanto Societo
Korespondado de SES(SES通信#66)
08/12/10
Saluton ! SESanoj
◆師になった事もなく、定職もないと言うのに12月は気忙しい。本物の先生ならきっと忙しいに違いない。エスペラントの師ザメンホフは1859年12月15日、当時ロシア領だった田舎町ビヤリストクで生まれた。彼が創出した言語は100年の歴史を超え、100カ国以上で生き続けている。世界最多の人々が話す中国語も、国際語だと豪語する英語というアメリカ語も、未だ人類友好の言葉としては機能していない。12月は札幌エスペラント会も恒例のザメンホフ祭で友好を高める。
ザメンホフ祭
日 時 12月13日(土) 午後1時から
場 所 かでる2・7 5階 540会議室
参加費 500円
参加資格などありません SESの会員であろうとなかろうと、エスペラントを知らない人でも結構です。クイズやゲーム、紙芝居や詩の朗読などを楽しみます。
◆豊蔵さんSESにご厚志
去る10月30日に他界された豊蔵正吾さんの奥様キン子さんから、夫の意思として身にあまるご寄付を戴きました。他にも多数のエスペラント蔵書の恵贈にあずかりました。書籍は差しあたりHELの書庫に保管をお願いし、お金の使途については2月の総会で決めたいと考えています。これら金品は11月26日切替会長、児玉、後藤がご本人から受け取りました。会員の中で何か有意義なお考えをもつ方は事前に又は総会に提案してください。
Korespondado
de SES(SES通信#65) 08/11/10
Saluton ! SESanoj
豊蔵さんを偲んで
札幌エスペラント会の最年長者でもあり、最も熱心なエスペランチストであった豊蔵正吾さんが亡くなられた。享年96歳だった。豊蔵さんは1912年7月30日に6人兄弟の3男として札幌で生まれた。この年は1月に中華民国が成立し孫文が臨時大統領に就任した。7月30日と言えば明治天皇が崩御されたその日だ。昨年の秋「兵隊が長すぎた」ともらしておられたが、彼は23歳の春、千葉の鉄道連隊に工兵として入隊。現北朝鮮の宣江で毎日12時間の鉄道敷設に従事していた。終戦後捕虜としてモスクワ近郊で4年間のラーゲリを経験している。北大農学部の事務長を退職してから70歳でエスペラントに出会う。現札幌エスペラント会長の切替さんに画家の金森美子さんと共に学んだ。SESの勉強会には欠かすことなく出席し、一方80歳を過ぎても夏はモイワ登山、冬はスキーの超健康体の持ち主だったが、白内障と帯状疱疹などに悩まされ、エスペラントも此れ切りにしたいと漏らされたこともあった。しかし、2007年の春毎月送られてくるSES通信を見て、前に読んだ「アンネの日記」を手にする。読み始めると面白く、スラスラ読めることに気付く。「私の命の初夜です」又エスペラントの仲間に加えてください、と手紙をいただいた。新しく読み始めた Robinson Kurso
は3日で26pも読み進んだと喜々として報告して下さった。
SESの輪読会ではキリスト教の聖書を、次いで仏教々典、イスラム教のコーランまで三大教典をエスペラントで読破された。一緒に学んだ私の仏典は豊蔵さんの柩に忍ばせて戴いた。
豊蔵さん、安らかに眠りください。
Korespondado de SES(SES通信#64)
08/10/10
Saluton ! SESanoj
◆ 秋もぐんぐん深まって、老人ばかりでなく若者でさえ肩をすくめて歩いている。9月、10月は文化的事業が目白押しだがスポーツも盛んだ。我が日本ハムファイターズはCS第1ステージを3−0で勝ち上がった。
◆ 9月13,14日にはHELのエスペラント大会があった。初日は一般参加の講演会。アイヌ語ペンクラブの会長、野本久栄さんが演壇に立った。「天から下りてきたものに何一つ無駄はない」という自然神を生活の礎としてきたアイヌの知恵だ。エスペラントでも
Naturo と言う言葉があって、これと同じような使い方をしている場合がよくある。我々も・・・無駄にしてはいけない、と言い直して自戒しよう。二日目は、連盟総会、地方会報告の中でSESの土曜会について、以前は参加する時胸が躍ったが、今はその雰囲気が失われた。ときびしい批判があった。参加者の大半が老人といって逃げるのでなく真剣に対応を考えなければなるまい。
◆ SESの例会は月曜も、土曜も北2条西7丁目の「かでる2・7」で行っている。ここは会議室、研修室、和室、ホールなど合計44室あって多目的に使われている。毎月広報誌も発行しており「サークル紹介」というコラムもある。10月号には札幌エスペラント会の紹介も載せたので機会がありましたらご覧下さい。
◆ エル・プラザ5周年フェスタ 9月27日に札幌公共施設(愛称エルプラザ・・・東側から見ると建物がL型に見える)で、ここを拠点に活動をしているグループの展示・宣伝のお祭りがあった。HELでも川合由香さんが中心になって展示や入場者へのプロパガンダを行った。各フロアーから外まで、かなり多くの来場者があってとても楽しく有意義な催しでした。
Korespondado de SES(SES通信#63) 08/09/10
Saluton ! SESanoj
北海道エスペラント大会のお知らせ
昭和の初期、山部でウブ声を上げた北海道エスペラント大会も今年で72回目を迎えました。いっ時は100人を超えた大会参加者は年々減って今では二桁がやっとという年もありました。エスペラント大会は世界平和のデモンストレーションではありませんから、数が多ければいいというものではありませんが、久し振りに旧知に会って友情を暖めたり、新しく仲間入りして、楽しみながら北海道のエスペラント運動に活を入れようではありませんか。
場 所 道旅客鉄道(株)社員研修センター
東区 北5条 東10丁目
(苗穂駅とサッポロビール園の中間、
駅から徒歩約13分)
日 時 9月13日(土)13:00〜16:00
国際言語年・アイヌ民族先住民決議
記念講演 アイヌ語ペンクラブ会長
野本久栄さん
18:00〜
バンケード、会費は実費
9月14日(日) 9:00〜
北海道エスペラント連盟総会 他
*参加は会員非会員を問いません
Korespondado de SES(SES通信#62) 08/08/10
Saluton ! SESanoj
◆ 土用も過ぎて立秋ですが相変わらず暑い日が続いています。こちら土曜会はカミユの異邦人を読み終え、今は夏休み中。日本でも裁判員制度が始まろうとしていますが、異邦人が書かれた時フランスでは既に裁判員制度があり、この本にも登場する。要約するとこんな表現がある。「パンツを自分ではく奴等が味噌も糞もいっしょくたにして決定を下した」異邦人を読んでいない人のため、少し解説すると「パンツを自分で・・・とは万人が、又はどこの馬の骨がの意で裁判員を差す。具体的には「殺人が問われるというより母親の葬儀で涙を流さなかったという理由で裁判員が死刑を決めた」ということだ。カミユは裁判員を誘導して早々と極刑の結論を出させた裁判員制度を痛烈に批判している。
◆夏休みの終わった8月23日からは"Viktimoj"(犠牲者達)を読みます。中編小説でシベリアの戦争捕虜収容所(ラーゲリ)を扱ったユリオ・バギーのエスペラント書き下しの小説です。強制労働と現地人との直接交流、ロシア人の子供達も又戦争犠牲者となった、戦争が生み出した数々の問題点を浮き彫りにしています。振り返ればヒロシマでも数十万の非戦闘員が原爆で命を落とし、それから63年を過ぎた今もなお数万人もの人々がガンに蝕まれている現実があります。SES最高齢の豊蔵さんも数年間のラーゲリ生活を経験してます。今もなお強健なのは、この死の体験がもたらしたものかも知れない。
◆SESでは次の様な勉強会をしています。場所は「かでる2・7」午後1時から4時まで。
(a)ビンベーロの会 毎第1,第3月曜日 基本的には女性の会ですが参加には男女を問いません。
(b)土曜会 毎土曜日(月4回)
1. 学習テキストは"Viktimoj"
2. 入門講習会
Korespondado de
SES(SES通信#61) 08/01/25 (PDFファイル 21kB)
Korespondado de SES(SES通信#60) 08/01/10
Felicxan Novjaron!
◆SES通信も今回で60号、満5年を迎えた。長い間ご愛読下さった会員の皆さんに心から感謝します。次号から内容を一新して切替英雄さんが執筆いたします。
◆恒例のザメンホフ祭はHELから星田委員長、佐藤事務局長、川合地区委員が参加して12月15日に開かれました。準備不足のため内容にいまいちの所もありましたが、川合さんの紙芝居「新説浦島太郎」やSUDOKO(数独)等を楽しんだ。終了後は二次会と忘年会を兼ねてレストラン「マイヨール」で行いました。こちらは意気軒昂で議論百出でした。
◆ 臨時総会 ザメンホフ祭に先立ち、SESの臨時総会が開かれました。後藤会長が諸般の事情から職を辞し、新会長に切替英雄さんが選任されました。同時に広報担当も兼任し、会場係は山岸さんが引き受けることになりました。議論の中で任期についても触れ次期から、任期は二年とし、規約に盛り込むことも付託事項としました。
◆学習会 土曜会は1月19日から始まります。「ハムレット」は大団円を迎えて読了しました。新しいテキストはカミユーの代表作「異邦人」です。カミユーの作品は難解だとして敬遠されがちですが、移民の子マルソー青年の自由奔放な生き方を書いた切れのいい文章で、魯迅を思わせるような短い文体で綴られています。磨のかかった日本語にしようとすれば難しいかも知れませんが訳し理解するだけならとてもやさしくできています。
カミユーは1960年わずか46歳でその生涯を閉じましたが1913年アルジェリアの寒村でフランスからの入植者の子として生まれ、1歳の時、父は戦死、文盲の母に育てられた特異の経歴を持つ作家です。
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