第70回北海道エスペラント大会 報告
- La 70-a Hokkajda Kongreso de Esperanto -
Jen estas anonco pri la 70-a Hokkajda Kongreso de Esperanto
okazonta en Sapporo la 30an/septembro 〜 1an/oktobro.
Hokkajda Esperanto-Ligo
と き:2006年9月30日(土)〜10月1日(日)
ところ:かでる2・7 札幌市中央区北2西7
大会テーマ:プラハ宣言とアイヌ語復興運動
1996年プラハでの世界エスペラント大会で発表された「プラハ宣言」は21世紀に向けてエスペラント運動が何を目指すかを示しているが、その中で「中立の国際語(橋渡し言語=エスペラント)を提供」して「民族語の言語権を守り、言語の多様性を保証する」と述べている。我々はこれよりずっと以前、1970年代からアイヌ民話・神謡集の紹介などに努力してきたが、今回は「アイヌ語復興運動」を取り上げた。
今回の大会では、多数のエスペランティスト(エスペラント使用者)に支持されているプラハ宣言にある「言語権」や「言語の多様性」の精神と関連がある「アイヌ語復興運動」の紹介をテーマとした。
[樺山氏の報告へ]
参加者数
活動方針などの報告をした第2日目の大会参加者数は、15名(総会出席者11、不在参加者4)。
大須賀さんはラジオ放送講座にも出ていた。白老で1998年「楽しくやさしいアイヌ語教室」を始め、メンバーを弁論大会などに出したが、幌別のカムイユカラの読解などレベルを高くすると「苦しく難しいアイヌ語教室」だと言われる。
大須賀さんが吟じてくれた白老の伝承者-上野ムイテクン媼(おうな)-によるカムイユカラ「エゾオオカミの小神の自叙伝」
はHELの Ainaj Jukaroj 第6話 Hotenaoと筋は同じだが、登場者が少し違う。カムイユカラには付きもののサケヘ(折り返し句、リフレイン)の話もあった。
もう一人の講師 萱野志朗さんはアイヌ最初の国会議員(参議院議員)だった故萱野茂さんの子息で当時は公設秘書をつとめた。茂さんは社会党から立候補し次点だったが、死亡繰り上げで当選した。当時は社会党出身の村山連立内閣首相、元旭川市長で茂さんの親友だった五十嵐広三が内閣官房長官だったので、保守派と調整し苦労して「アイヌ文化振興法」を実現した。志朗さんはアイヌ語の復活普及のために「アイヌ語特区」や、アイヌ語を含む「公用語法」を考えている。
聴衆から「方言」について質問があった。北海道ウタリ協会のアイヌ語テキスト「アコロ
イタク」では各地の方言併記、アイヌ語ラジオ講座のテキストは毎回各地の方言となり標準語というものがないが、一般に普及するには方言を大切にしつつも標準語が必要、との意見があった。しかし実現はなかなか難しいようである。
司会した横山(HEL)は講師2人の知人でもある。志朗さんと一緒に所属している「アイヌ語ペンクラブ」で発行しているアイヌ語新聞「アイヌタイムズ」編集長の浜田隆史さんの協力を得てプラハ宣言アイヌ語版を作り、大会記念品として配布した。 もう一つの記念品は「エスペラントはこうして話す」(藤本逹生)だった。
懇親会には萱野さんが出席、有意義な意見交換があった。講師2人ともプラハ宣言の内容には好意的な印象を持ってくれたようである。エスペラント運動の精神がアイヌ文化を普及させるという精神と一致していることは、プラハ宣言の趣旨からも明らかとなっている。
なお、講演内容については、mp3 音声ファイルにして公開した。
プラハ宣言アイヌ語版は、pdf ファイルにしてホームページに公開した。
今年の北海道エスペラント大会は、札幌でおこなわれた。アイヌ民族である萱野志朗さん(日高管内平取町)と大須賀るえ子さん(胆振管内白老町)を招いて、話をしていただいた。大須賀さんは、函館方面から鉄道でかけつけてくれた。道南はひどい天気で、汽車が遅れたそうだが、なんとか間に合ったとのこと。会場には、北海道エスペラント連盟の会員以外にも、興味をもって講演を聴きにきた人が数名いて、その人たちからの講師への質問もあり、広がりを持てた。
萱野志朗さん、大須賀るえ子さん、ともに、生まれながらのアイヌ語話者ではなく、大人になってから自ら努力してアイヌ語を自分のものにした人である。
大須賀さんは、アイヌ語を学び始めて、そのすばらしさに惹かれていき、札幌の蓮池さんから口承文芸を習った。アイヌ語ラジオ講座の講師も務めた。でも、地元である白老町での大須賀さんたちのささやかなアイヌ文化サークルは、それほどふるわない。アイヌ語弁論大会に、持ち回りで毎年参加していたのだが、疲れてしまって、昨年は参加しなかった。白老といえば、アイヌコタンの観光地として有名だ。観光客が多いところなのに、こういった市民活動は、小さくて、またたいへんなのだ。話の終わりに、上野ムイテクン(1872〜1964)伝承による、小狼と女神の紳謡を、すばらしく響く声で披露していただいた。(なお、大会後の、11月11日に日高の様似町で行われたアイヌ語弁論大会では、白老町から2名参加があった。)
萱野志朗さんは、アイヌ民族のなかで名前が最も知られた故・萱野茂氏(アイヌ民族初の参議院議員)のご子息である。萱野茂氏が議員だった時期に、志朗さんは公設秘書だった。志朗さんの今の肩書きは、「萱野茂二風谷アイヌ資料館館長」と、「アイヌ語ペンクラブ事務局長」である。大学で法学を修め、政界の表裏を経験してきたので、「法」「政」からの切り込んだ話を聴くことができた。
1986年、ときの中曽根康弘首相が日本単一民族礼賛・米国多民族誹謗発言をし、米国民や世界の良識ある人々を怒らせた。ここで、存在を否定されたアイヌ民族の運動が一気に燃え上がった。その民族運動のなかで、特に焦点となったのが、北海道旧土人保護法の改廃だった。そのような流れのなかで、アイヌとして、萱野茂氏が社会党から参議院議員に比例代表枠で立候補する。次席で落選したものの、後に議員の死亡により、繰り上げで議員になった。社会党の村山富市首相の内閣で、官房長官の五十嵐広三氏が元旭川市長で旧知の仲だったことから、消極的な保守勢力が多いなかで、なんとか旧法廃止及びアイヌ文化振興法制定が実現する。ただし、この法律は、あくまでアイヌの人々を主語としない、アイヌの文化に限った法であり、法学からも民族法とはいえない。日本政府は、アイヌ民族が北海道の先住民族であることさえ、認めることをかたくなに拒んできた。しかし、1997年に、二風谷ダム裁判裁判で、札幌地方裁判所が、アイヌ民族を先住民族であると判決文のなかで明言した。この判例が、アイヌ民族の権利回復について、法的に重要な基礎となると、萱野志朗さんは語った。具体的には、アイヌ特区を作ることと、アイヌ語の公用語化を考えている。
講演後の質疑では、アイヌ語の方言について質問が集中した。後藤義治さんは、ヘブライ語を復活させたベン・イェフダの功績を引き合いにして、アイヌ語の共通語の必要性を主張した。
両講演者と親しい存在である横山裕之さんは、プラハ宣言をアイヌ語に訳して、この会場で配布し、請われて始めの部分を朗読した。
大会の記念品は、藤本達生著「エスペラントはこうして話す〜エスペラント会話の実際」(日本エスペラント図書刊行会)で、全員に配られた。
プログラムが終わったあと、フィレンツェであった世界大会の写真展示や、アルゼンチン、ウクライナのエスペランチストとの文通についての展示を見ながら、しばらく歓談した。
大須賀さんは所用でいられなかったが、萱野さんとはバンケード(宴)を共にすることができた。情報交換が豊富で、有意義だった。両講演者とも、プラハ宣言を好意をもって評した。プラハ宣言に自信をもって、進もう、我らエスペランチスト。 (樺山 裕介)