カナモジ・ローマ字論の初歩
ヤマサキ セイコー
カナモジカイへの個人的サポートホームページの管理者のコメント(若林眞守氏)
北海道エスペラント連盟機関誌1999年4−5月号の川合由香さんの疑問に答えよう.
昔の日本語への漢字の導入と現代の日本語への英語の侵入とは河合さんを待つまでもなく歴史的背景が違うから区別しなければならないのは当然である.しかし日本語に対する害悪の点では英語と同様である.
1.同音異義語があるから漢字を廃止できないというのは漢字保守主義者が昔から何千回も繰り返してきたことであるが,議論が逆である.ヘーゲルの弁証法と同じく問題の立て方をひっくり返さなくてはならぬ.
漢字がある限り同音異義語はなくならない.なくすればひとりでになくなる.会話では同音異義語は余り問題にならない.というのはひとは紛らわしいことばは使わないように自然発生的につとめるからである.ときに分からないことがあると,「コウエン−ええと,アトオシです,ハナシではありません」などという.それなら後援などという効率のわるいことばはやめてだれでも分かる「アトオシ」というヤマトコトバを使えばいいのである.にもかかわらずそれをしないのは,昔からの中国崇拝のため,漢字というコケオドシを貴ぶ精神からである.耳で聞いて分からないことばなどはことばというに値しないというべきである.
古代の日本語では「え」に2種類あった.eとyeである.eはエノキのこと,yeは枝,江,柄のことだった.それが平安朝の初めくらいにひとつになってしまって,同音異義語が生じた.江,柄はコンテクストが違うから問題は起こらない.しかし枝とエノキは区別する必要がある.川合さんなら漢字が違うから困らないと平然として入るであろうが,いちいち紙に書いて示すのか.めんどうでしょうがないではないか(ちなみにメンドウに面倒とかくのは当て字である−語原にまったく関係がない).このころの人は漢字中毒が今のように末期的になっていなかったから,簡単にエダとエノキと違うことばを使うことで解決した.コというのはいろいろの意味があった.いまわれわれが,コドモ,コナ,カイコ,ナマコなどと区別しているのは昔の民衆の知恵のたまものである.
中国語は日本語よりはるかにオトがゆたかである.たとえばチというオトは日本語では1つしかない.中国語では有気音と無気音,捲舌音と舌面音の区別があるから4つになる.これがそれぞれ4つの声調をもつから,掛けると16になる.1対16.これで同音異義語ができなければ不思議である.日本はありうるもっとも悪い選択をしたのである.しかし選択をしたというのは先祖に不公平である.選択の余地はなかった.中国文化はそれほど圧倒的だったのである.川合さんは主体的意志といっているが主体的意志の出る幕はなかった.だから不幸だったのである.しかしいまなら主体的意志をわれわれは行使することが出きる.だからわれわれカナモジ・ローマ字論者は運動をしているのである.
これがちかくにローマ帝国があったのなら今のような不幸は防げた.ラテン語は日本語と音韻の数が余り違わない.しかしこんなことをいっても始まらない.
2.「漢字を廃止したら漢語がすたれてヤマトコトバに収束していくと理解」してはいけない.残念ながら漢字の毒がしみこんでいるのでそうはならない.しかしヤマトコトバの造語力は今と比べられないくらいましているであろう.
3.2を否定しているのだからこれに答える必要はないだろう.
つぎにまた1)が出てきてよくわからないが,1.わたしの名は親がつけたのでわたしの責任はない.自分のコドモにはみなヤマトコトバの名をつけた.カタカナにしたかったが,日本は人と違っているといじめられるというバカげた社会なので妥協して漢字で届けた.セイコーは音でしかないのは漢字だから当然のことである.漢字とはそんなものなのである.追求・追及・追究ということばを使っている人がどういう区別をしているか説明してくれない限りほかの人には分からない.区別したければ語ではなく句にすべきである.または分脈で区別できる限りツイキュウと書いて不都合はない.こんな質の低いことば漢字がなくなれば必ず言い替えが起こって消え失せるだろう.
黙読・斜め読みは漢字文化圏の人の専売とはどこから出てきたのか.まず黙読の件はまったく問題のそとである.ロシヤの人が本を読むのに声を出して読むか.
斜め読みはだれでもやっている.ロシヤ人に聞いてみるといい.ついでにいうならば,あなたはエスペラントで斜め読みをしないのか.それならもって本をたくさん読むとよろしい.おまえはローマ字で書いた日本語を漢字まじりと同じ早さで読めるかと聞かれれば否と答えざるをえない.それはあたりまえのことである.読んだ本の数が何百倍,何千倍だからである.
2.ヤマトコトバに回帰することはない−残念ながら.だからこの項には答える必要はないだろう.
3.日常語と学術語が違うものだというのが偏見である.英語やフランス語はラテン語系の学術語を使う.これは歴史的必然性があった.フランス語はラテン語の子孫であるからしばらく置き(というのは本誌のページの制限があるからということである),英語はラテン語をなくするわけには行かない.しかしちかごろ古典語の知識が廃れてきて術語をギリシャ・ラテン語で作れなくなっている.その結果たとえば物理ではquarkなどという英語が術語になり,前世紀のか学者が聞いたら嘆き悲しむであろう事態となっている.quarkは文学作品からきているから,別の例としてstrangenessをあげよう.これは「奇妙なこと」というまったくの日常語である.だからといって川合さんの心配する事態はまったく起きない.stressも日常語である.
これについては日本語にヒットがある.ひずみという川合さんの嫌いなヤマトコトバがstressの訳語となっている.
これは英語であるが,ドイツ語はほとんどのばあいラテン語に対してゲルマン語の対応する訳語があって自由に入れ換えて使うことができる.動詞にはVerbというラテン語とZeitwortというゲルマン語がある.ゲルマン語根はいきいきとした造語力があるのである.
日常語と術語が同じで困るなどということはない.なぜなら分脈が違うから混乱を来すことはない.また学問上の概念は日常語がとらえている現象の本質を拾い上げて磨き上げたものだからである.ヘーゲル哲学でいうSeinは日本では有(ユウと読んだりウと仏教もどきに読んだりする)とか存在と訳されているがドイツ語では英語のbe動詞,エスペラントのestiに当たることばである.定在と訳されているDaseinは「そこにある」ということである.「ある」ということを徹底的に考えていくとああなるのである.漢語の術語を使えば深遠そうに見えるだけで内容は変わらない,文字で分かりにくくなった分だけ悪くなっているのである.
要するに学術用語は日常語と違っている方がありがたく聞こえるというだけのことである.これをコケオドシという.川合さんの言われることを外国語に引きなおしていえば,ギリシャ・ラテン語系の術語を使えということに帰着する.それゆえドイツ語は学問をするのにふさわしくないというわけである.それにしてはドイツの学問水準が高いのはドイツ人が優秀だからなのか.これは人種主義である.
一方ギリシャ・ラテン術語は漢語術語に対して圧倒的な優位を持つ.それは国際性ということである.たとえばfilozofioといえば日本と中国・韓国をのぞけば世界中の人が理解する.しかも「哲学」という日本語はfilozofioの訳語としてつくられたことばでわれわれが「哲学」ということばで理解することは外国人がfilozofioということばで理解することと寸分違わない.この問題に深入りするとページが足りないので省く.
もとに戻って,ではギリシャ・ラテンの日常語と違うのが川合さんの理想なのでそれを検討してみよう.ラテン語の術語はギリシャ語の訳であることが多い.
「質」は西洋の論理学では基本的な概念である.「量から質への転化」などに使われている.これは日本・中国をのぞきどこでもkvalitoと兄弟のことばを使う.英語ではqualityなことはどなたもご存じであろう.これはラテン語のqualitasが語原である.このことばは「どんな」という意味の形容詞qualisから来ている.-itasはエスペラントの-ecoと同じく形容詞を名詞に変える接尾語である.日本語では形容詞に「−さ」をつけると名詞になる.「白い」から「白さ」ができる.だからqualitasはいわば「どんなようなさ」である.「質」などというといかにも深刻だがそんなことなのである.これはキケロがギリシャ語のpoiotesの訳として造語したといわれている.ギリシャ語ではpoios「どんな」の名詞化である.これをアリストテレスがその論理学の中で分析してみせたのである.アリストテレスは下宿のおばさんのことばで哲学したのである.それ以外にやりようがなかった.高度の内容を持ったことばをどこから探してくるのか.日常語以外にあるはずがない.ギリシャ語より古い言語から借りてくるか.ではエジプト人はどこから持ってくるか.
qualitasということばはさすがのドイツ語もゲルマン語から作り出すことはしなかった.しかしそれをやってのけた言語があるのである.川合さんのお得意のロシヤ語である.ロシヤ語ではkac^estvoである.すぐにだれでも気がつくようにこれはkak,
kakoj(どんなに,どんな)と関係がある.ロシヤでは抽象的思考はむずかしいか.
そのつぎの日本語の例は論拠にならない.第一わかち書きがしてないから読みにくい.今ただちに漢字を廃止しても,日本語はかわらない.良き日本語は漢字廃止の結果として生まれてくるものだからだ.だから第2の文例をそのままローマ字書きする以外にない.したからとて理解されないことはない.これを読む人は専門家だから少しの練習で斜め読みすることができるだろう.ことばが変わってくるのはそれから徐々にである.
「functionをはたらきと関数に,...使い分けねばならない英語話者はじつにご苦労さんだと思う」というのはサッパリわからない.漢字とはなんの関係もない話である.英語(のみならず西洋語)の術語の多義性の問題にすぎない.しかもこれが混乱を引き起こしているなどということは聞いたことがない.わたしが英語の文献を読んでいてご苦労だと思ってことはない.なぜ日本人のノーベル賞受賞者が少ないのか.そんなありがたい漢字を使っているのだから断然多くなければならないはずではないか.もちろんこれはバカげた発言である.だが漢字が思考を助けると言い張るのもおなじくらい意味のないことである.
ローマ字学級のことは漢字をなくすれば文化の劣った人びとができあがると思っている人ばかりなのでその反証としてあげた.優れているという結論を出すためには統計資料が必要だが,あの短い文でそこまで論ずる余地がないのは当然だろう.
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YAMASAKI Seiko^