<同 報 通 信>
      <敗 戦 記 念 日>によせて
                     99−08−15
 8。15は敗戦記念日です。世の一般人は、終戦記念日と言うのが定説で
す。しかし、僕、南海派遣軍、猛部隊、独立野戦機関砲第15中隊、陸軍砲
兵上等兵にとっては、南冥の灼熱の地、ニュウギニアの密林、海岸の餓死し
た戦友達255名の生き残り17名の内の兵として、敢えて言います、8。
15は終戦記念日ではありません。敗け戦で終った記念の日です。
 これが日本人の悪いところです。何事も本質を隠して、ぼやかして<マ−
マ−主義>の<お堅いことは言わないで>すまします。

 戦艦<大和>の引揚げもせず1000余の兵員の海底に眠る遺体も収容さ
れていません。ニュウギニアの山野には、まだ10万の将兵が遺体が、銃を
抱いた白骨の兵士が放置されているのです。厚生省の収容したのは1000
0人分ぐらいか。 僕は,S19年、生還して以来、55年間一日も戦友の
ことを忘すれた日はありません。特に食事の時は思い出します。

 20.8。15 は、皆さんはいかがでしたか。僕の場合は。
 僕は、海軍運輸本部嘱託、鉄道輸送2課勤務の軍属として、海軍省に勤務
していた。S、19年10月。市川。重砲兵連隊から除隊して、鉄道関係に
もどったが、直に海軍に行けと命令、陸軍上等兵から、私服を着用の海軍軍
属<准士官待遇>に変身した。省内で鉄道の乗車券発行係に過ぎない。それ
でも海軍の高官、海軍大佐(伏見宮軍令部長付武官),大本営海軍報道部長
(海軍小将),小説家、川端康成(友人、文芸誌編集者の中垣虎児郎が連れ
てきた)etcが、 公用、私用の乗車券を求めて来所する。
 戦時中はおかしなことで、<侍従武官の大佐殿が、箱根にいる海軍の総指
揮官である軍令部長閣下に連絡に行くにも、いちいち汽車の切符がないと乗
車できない。それで僕から買って行く訳です。日本が負けそうな時に、なん
とものんびりした話です。     
<註>中垣虎児郎;戦前のプロエス同盟教育部長、戦後、一時期、JEIの
ESPERANTO誌編集者、共産党員として死ぬ。画家、編集者としてし
生きた。著書に<初等エスペラント講座><プロエス講座>ktp    
 
ある日東京駅の憲兵から電話あり、<佐世保海軍工廠職工が艦政本部に特別
攻撃用兵器の図面の受取にきた。切符が買へない。なんとかして欲しい>と
のこと。僕は<切符なんかなくても乗って行け>,結局。海軍省まできても
らい。佐世保までの乗車券を渡したが。僕が憲兵なら、ホ−ムにいき事情を
説明して。無札乗車の扱いを(無賃乗車にあらず)車掌に依頼するか、東京
駅駅長に掛けあって、乗車券を発行させたが(戦時中も戦後も、鉄道当局は
一般に売り出す各線区ごとの乗車券の割宛分のうちの50%ぐらいを隠して
裏から闇売をして儲けた。

 敗戦後は特にひどかった。JTBの前身、日本交通公社は、ほとんどの職
員が切符の闇屋だ。僕は東京、上野。新宿の各駅駐在の旅行統制官(代行)
乗車券發売許可証交付の特別詮義掛をしていて、正義派として闇売りのJT
Bの上司にきらわれていた。。

20−8−15;昭和天皇のいわゆる<玉音放送>は、当日、外出中で 有
楽町駅の近くで聴いた。その日は空襲もなく晴れた静かな日であった。<や
れやれ戦争はおわったか>.敗戦になるのは前から知っていた。それでは、
僕の主張の<8.15は終戦記念日ではない>と矛循するが。<負け戦が終
った記念の日>と言うのなら良い。 皆さんにはお気に召さない?
 僕は天皇制を賛美するものではないが <植物学研究者>として読んだ書
朝日新聞刊;昭和天皇著<皇居の植物>の序文の中で侍従長、入江相政は、
書いている<8月15日、敗戦の日、陛下は如何ばかりご苦悩の、、>

 新聞の論調、記者のルポ等を注意してると、文脈によっては、敗戦、終戦
の言葉の使い分けをしてる。文学者、哲学者、歴史家・評論家、キリスト者
などには<敗戦>と書く人が多い。わが友人たちは、如何でしょうか。
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      略
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 始めは、短い<敗戦紀念日論>を書くつもりが、ワ−プロと格闘中に思い
出が湧いてきた。(自分史の一部です) 
  。万年原稿料無しのヘボ随筆、ライタ−です。M



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