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「知里真志保とエスペラント」

 北海道大学文学部教授文学博士の知里真志保は、明治42年に幌別町字登別町(現 登別市)に生まれ、学生時代より一貫して彼の研究を支援した渋沢敬三及びアイヌ語研究の第一人者である言語学者の金田一京助に、そのえい才を認められ指導を受け、アイヌ語の言語的研究を志したアイヌ民族出身のすぐれた言語学者です。昭和18年北海道大学に赴任、アイヌ語アイヌ文学を講じましたが、その間日本常民文化研究所より発刊した分類アイヌ語辞典三巻はアイヌ語の本格的研究として朝日文化賞を得たのみならず、高く海外にも評価されました。しかし、昭和36年、持病の心臓病のため52才で永眠されました。(「知里真志保の生涯」藤本英夫著 より)
 知里の学問的業績としては、なによりも、アイヌ語の言語学的分析の骨格をほぼ現在の水準にまで高めたことがあげられます。さらにアイヌ語地名研究者の山田秀三との共同調査に基づき、「地名アイヌ語小辞典」(1956)を刊行し、アイヌ語地名研究の深化をもたらしました。また、すでに心臓病が悪化していた昭和30年(1955)にも言語学者・服部四郎と共に宗谷・旭川地方のアイヌ語方言調査を行うなど、アイヌ語研究の基礎資料の蓄積に貢献しています。(「アイヌ民族に関する指導資料」(財)アイヌ文化振興・研究推進機構 より)
 なお、北海道エスペラント連盟でエスペラント訳した「Ainaj Jukaroj」の原本である「アイヌ神謡集」を著した知里幸恵は、真志保の実姉です。

 知里とエスペラントの関係について言えば、旧制一高、東大を通じ学友だった松本に、「エスペラントはヨーロッパの言語を標本化したものだ」と、エスペラントの講義をしたり、エスペラントで手紙を書いたというエピソードがあります。また、知里と親交があり、後に義弟となった佐藤三次郎にもエスペラントをすすめたそうです。(「知里真志保の生涯」藤本英夫著 p.133より)

なお、北海道エスペラント連盟の星田委員長より、以下のコメントをいただいていますので、紹介します。

「知里真志保とエスペラントの接点は?
 真志保が学生時代にエスペラントを知り使える程度に達していたことは、かなり以前から藤本英夫氏に指摘されていました。誰もが認めるずば抜けた語学の才能のあった人ですから、文法の簡単なエスペラントなら独学でもすぐマスターできたでしょう。しかし彼の身辺を見ると、数人のエスペランチストが浮かび上がってきます。
 北海道エスペラント連盟(HEL)が出した Ainaj Jukaroj では、2人の名がでてきます(1989年版では 101ページ)。
 1人はこのページの文を書いている 松葉菊延(まつばきくのぶ)。
アイヌ神謡集の1篇をエスペラント訳して La Revuo Orienta 1926年10月号に出したが、詩としての扱い方に迷って「アイヌの学生がいる」と聞き、教えを乞うつもりで訪ねます。真志保が一高〜東大の学生だった時代の 1930 〜1935年の間かと思われます。当然「エスペラント訳したい」との話はあったでしょう。
 もう1人はこの松葉と真志保を引き合わせた 宗近真澄(エスペラント人名辞典では むねちかしんちょう、松葉の記憶では むねちかますみ)で、呉海軍工廠から艦政本部に勤務、JEI評議員も勤めました。松葉は横須賀海軍工廠勤務。真志保は一高時代一時海軍中将宅に住み込んでいましたから、その関係での接触があったか、と推定されます。
 あと一人は真志保が尊敬していた日本民俗学の開拓者、柳田国男です。彼がエスペランチストでJEI役員でもあったことは、今は忘れられているようですが。もちろんこの人たちが真志保のエスペラント学習とどんな関係があったかは、今となってはわからぬ昔のことになりました。」

 知里は、樺太に住んでいた時代に、「アイヌ語法研究 - 樺太アイヌ語を中心として」(1942年)という論文を出しました。この中の凡例には、アイヌ語のローマ字は、従来の慣用である英語式を一部改めて、ch の代わりに、c に谷形の字上符記号)を付けた文字キャロン付きc )を、sh の代わりに、s に谷形の字上符記号)を付けた文字キャロン付きs )を、w の代わりに、u に皿形の字上符記号)を付けた文字ブリーブ付きu )を、y の代わりに、j を用いると書かれています。知里は、この時期を中心に一定の期間、このようなアイヌ語のローマ字表記をしていました。

 また、1944 年の「樺太庁博物館彙報」の中の「樺太アイヌの説話」を見ると、知里自身の肉筆によるこれらの字上符文字がある説話採録メモを見ることができます。

なお、この論文の音韻論の子音の項を見ますと、以下のようなことが書かれています:

 。。。破擦音(affricate)(キャロン(谷形記号)付きc )は時に対応の有声音。。。 [ヂ]の頭音 - 「サーカムフレクスアクセント付きj 」(j に山形の字上符記号)を付けた文字) }として現れる。しかしこれらは同じ音韻の異なる音声的実現にすぎない。清濁によって意味に差を生じる語は一つもない。清濁はアイヌ語においては音韻的対立を成さないのである。
 s(シを除く「サ行の頭音」)は、(キャロン(谷形記号)付きs - シャの頭音 )として現れる。しかしいづれも同じ音韻の異なる現れにすぎない。北海道ではもかなり多く用いられるが、樺太では s が普通である。しかし樺太でも母音 -i に先立つ場合は口蓋化して常にであり、また音節の尾音に立つ時も多くである。

 これらをまとめると、以下のようになります。すなわち、知里氏のある時期の一連のアイヌ語のローマ字表記は、エスペラントの影響を受けているものと推察されます。

(1)知里は、エスペラントの講義をしたり、エスペラントで手紙を書いたりしていたことがあるということ。

(2)(キャロン(谷形記号)付きc 及び s )という文字は、エスペラントの文字ではないが、谷形の字上符文字を、山形の字上符文字変えるとエスペラント固有の文字(サーカムフレクスアクセント(山形記号)付きc 及び s)となり、これは凡例にある(キャロン(谷形記号)付きc 及び s )の定義にある英語式ローマ字表記にそれぞれ対応するということ。*

(3)y の代わりに、 j を用いていて、これは、エスペラントと同じであるということ。

(4)wの代わりに、エスペラント固有(ブリーブ(皿形記号)付きu )という文字を用いているということ。

(5)(キャロン付きc )に対応する有声音の説明で、エスペラント固有(サーカムフレクスアクセント(山形記号)付きj )という文字を取り上げているということ。この文字は、エスペラントでは、(サーカムフレクスアクセント(山形記号)付きc )に対応する有声音の文字であるということ。

 *(キャロン(谷形記号)付きc 及び s )という文字は、エストニア語、クロアチア語、スロバキア語、スロベニア語、ソルビア語、チェコ語、フィン語、サーミ語、ラトビア語、リトアニア語などで用いられる文字です。これらの言語の多くは、これらの文字に対して、それぞれ、英語式の ch, sh というローマ字表記に対応する音価を持っています。(「言語学大辞典 別巻 世界文字辞典」 三省堂 より)
 (キャロン(谷形記号)付きc 及び s )は、エスペラントの文字ではありません。しかし、この文字の谷形の字上符を、山形の字上符に変えると、エスペラント固有の(サーカムフレクスアクセント(山形記号)付きc 及び s )という文字になります。これらは、前述の(キャロン(谷形記号)付きc 及び s )という文字の定義にある英語式の ch, sh というローマ字表記に対応します。
また、知里氏の論文で論じられている「の有声音である- 」は、エスペラント固有の文字です。と異なり、エストニア語、クロアチア語、スロバキア語、スロベニア語、ソルビア語、チェコ語、フィン語、サーミ語、ラトビア語、リトアニア語などでは用いられません。

なお、参考までに紹介しますと、
『新版 音韻論と正書法』(服部四郎著、大修館書店、1979年)に、
「TRAGER-BLOCHの音韻論の中に、英語の子音フォネームとして、を含む24 を認めている」という記述があり、キャロン(谷形記号)付きローマ字が使われています。これは、英語式の ch, sh というローマ字表記に対応する音価に相当します。

 ※フォーネム(phonem)とは、言語学用語の「音素」のことです。言語学をご存じの方は承知していると思いますが、「音素」とは、ある言語の形式と形式とを音(オン)の上で区別すると解釈される最小単位のことです。

(解説文・文責:横山裕之)