FM二風谷のページのURL
http://fmpipausi.sakura.ne.jp/menu.html
を修正しました。
それから、アイヌ語新聞のページですが、
(エスペラント版)
http://aynuitak.at-ninja.jp/ATkana_utf-8_eo.htm
(日本語版)
http://aynuitak.at-ninja.jp/ATkana_utf-8.htm
に変更しました。
全記事が出ているのでこちらにしました。
自著を語る(La Movado 346 [1979年12月号] p.11 - 12より)
Ainaj Jukaroj 星田 淳
Ainaj Jukaroj(知里幸惠編「アイヌ神謡集」のエスペラント訳)出版までのことを、共同翻訳活動の成果の例として書くように、との注文で、まさに「恐れながら」一文。本が出たことは成果といえようが、共同の仕事という観点からみれば多くの問題があったと思う。
始まりは71年5月、当時札幌で出ていたNEghflokoj誌に、もとKLEG所属の池本盛雄氏(当時千歳エス会)が書いた一文から。KLEGで出したJapanaj Malnovaj Rakontoj(柳田国男「日本の昔話」の抄訳)には北海道のものが入っていない。このあなうめに、皆で更科源蔵編の「アイヌ民話集」を共同翻訳しようと、テキストや仕事の分担まで提案したものであった。これに対し、関尾憲司、向井豊昭両氏から、いまアイヌをどうとりあげるか、現実のアイヌ問題に対する視点はどうか等、いわば idea flanko からの疑問が出、Neghflokoj誌上をにぎわしたが、71年8月の北海道エスペラント大会(苫小牧)では池本氏の提案通りに可決、郷土文化紹介、北海道の同士の共同作業としての praktika flanko の意義が理解されたものと思う。同年9月支笏湖畔で行われた合宿では民話の共同訳クラスも開かれ、復刊された北海道エスペラント連盟の機関誌 Leontodo にも訳文が掲載された。
アイヌのものを、との話が出た時から注目されていたのはカムイユーカラ(神謡)だった。これは動物神が自らの体験をのべる形の語り物で、アイヌの自然観、道徳観がよくあらわれている。「カムイユーカラの方が作品としては面白いが、これをやるには詩の翻訳という難問をかかえることになる...」と私がNeghflokoj誌(71年6 - 8月号)に書いたのは大会前だった。しかし、その後、「幻の名著」となっていた知里幸惠(1903 - 21)の「アイヌ神謡集」が、その前年、札幌の江南堂から復興出版されていたことがわかると、「アイヌ民話エス訳研究会」は「ユーカラ・エス訳グループ」に変身し、72年からユーカラの訳が続々Leontodo誌にのることになった。しかし、大問題がひとつ残っていた。ユーカラは文字のない民族の伝承だから、詩としての行分けがきちんとしているわけではなく、原文も散文詩の形。アイヌ文学やユーカラ研究家は4~5音を一行とし、息つぎで行を分けるが、そうすると行数は原文の3倍以上になる。この方法は語順が同じ日本語との対訳にはいいが、エスペラント訳には無意味。結局、大部分は知里幸惠の行分け、一部は知里真志保(幸惠の弟、1919~61)の行分けによった。こうして紆余曲折や停滞もあったが、75年初め本文の訳を終り、推こうや解説づくりにかかる。共同翻訳参加のよびかけ、割当てはたびたび行われたが、参加者は結局6名(相沢治雄、星田淳、池本盛雄、児玉広夫、関根憲司、山賀勇)にとどまった。北海道エス会の現状では止むを得ぬところか。
veterano の lingva kontrolo の必要を感じ、76年3月松葉菊延氏に依頼、快諾を得た。(松葉氏は50余年前、この原本が出版されて間もなくエス訳を志し、26年10月 La Revuo Orienta 誌上に、その1編を発表した大先輩)。それから2年余、精力的にわれわれの原稿の plibonigo につくされた。この「手直し」が大変だった。当然のことながら、欠点だらけの粗訳は松葉さんの容赦ない批判の矢を浴び、ほとんど原型を失った作品もある。訂正、書き直ししたテキストは、そのつどコピーを全員に配って意見を徴した。こうして78年になって訳文が確定。
初めは、相互に意見、批判を出しながらの各人各様の翻訳。手直しに入ってからは、監修者と連絡討論しつつ訳文訂正を進めた私が、他の共訳者の意見をききながらまとめた、というのが「共同翻訳」の実態だった。自分の訳に自信を持ち、他人の訂正を拒否、当初のまま残ったものも1編ある。
各編ごとのさし絵は向井豊昭氏がけりまい小学校の児童に書かせてくれたもの。タイプ打ちは東京の鷲尾栄子さん。全編にわたって1字のミスもなかった。
蛇足ながら、23年の初版以来、70年の弘南堂版、78年の岩波文庫と、そのままもちこされていた原文の誤り(知里幸惠の書き誤り)を3カ所発見し、訂正した。