星田さんへの『人民の敵』のインタービュー記事について
Intervjuo de HEL-eksprezidanto HOŜIDA Acuŝi en la gazeto "Ĵinmin no teki"
横山裕之
『人民の敵』という九州在住の外山恒一氏が発行する月刊の“活動報告誌”があります。これには、毎号3、4本の対談、座談会、インタビューなどが掲載されています。それらの“歓談”の相手として登場する人の多くは、とくに地方都市でさまざまな政治的・文化的活動を模索する人々です。外山氏は〝アナキズムの延長としてのファシズム〟という特異な政治的スタンスを標榜しており、そのことによる“大衆からの孤立”への覚悟が誌名には込められていると表明しています。外山氏は、一時HELの役員を務めた札幌のM氏とは20年来の交友があり、90年代末のHEL大会にも参加しました。
この雑誌の第13号と第14号に掲載するために、2015年9月25日、26日に、我が北海道エスペラント連盟の元委員長・星田淳さんのインタビューが秘密裏に行われました。星田さんは、ベテランのエスペランチストですが、その半生や考え方などから背景となるものをこのインタビューから感じ取ることができれば、エスペランチストとしての星田さんへの理解も深まるのではないかと思い、掲載をすることとしました。エスペラントをやっている人を、背景も含めて知るということもある意味重要なことではないかと考えています。
場所は札幌市某所M氏宅において星田さんは二日間にわたってカンヅメ状態に近いまま、M氏と福岡からインタビューのために来道した外山氏による質問に矢継ぎ早に答えた、星田氏の記憶力にはM氏も外山氏も驚いたそうです。ここに関係各位の快諾をうけ、そのインタビューの内容を当ウェブページに掲載します。みなさまからのご批評、ご感想等をいただけると大変うれしく思います。若い北海道大学生などからは面白いとの評価を受けています。
「人民の敵」第13号
M まず星田さんの戦中、さらに敗戦直後のお話から聞いていきたいんですが……ぼくはよく星田さんは大陸の生まれだって勘違いしてしまうんです。実際には札幌生まれなんですよね?
星田 ええ。
M ご両親が北海道の出身なんですか?
星田 父親は九州、熊本県下益城郡豊野村。母親は朝鮮の、当時の「京城」(ソウル)で、明治43年、ちょうど日韓併合の年に生まれて、小学生時代に日本へ。 結婚後大陸へ渡るが敗戦のときはちょうど朝鮮にいて京城から追い出されて日本に帰ってきた。
M お母さんは札幌高女の出身じゃありませんでしたか?
星田 庁立高女。その当時はもちろん札幌にいた。というのも、母の父親の職業に関係してる。何と云えばいいのか……日本の農林関係の職員だった。公務員だね。
M 国家公務員?
星田 そう。したがって国内のあちこちに転勤がある。明治43年の時点では、すでに日韓併合の準備も進んでいたし、当時の大韓帝国政府には日本からもかなりの職員が派遣されておった。その1人として当時の京城に駐在していた日本人官員だったのが、私の母の父親ですね。*1)
M 札幌高女ということになると、ぼくの大先輩にあたる(笑)。
星田 そうか、今の札幌北高校だもんな。
M 「庁立高女」というのは、正式な名称は何と云うんですか?
星田 「北海道庁立札幌高等女学校」だろうか。
外山 あ、「チョウリツ」というのは「町」じゃなくて「北海道庁」の「庁」なんですね。
星田 そう。
M 当時の、少なくとも北海道の女性にとっては最高学府みたいなところですよね。
星田 まあ、そのように見られていたらしいですね。「庁立」といったのは、「札幌市立」の女学校が別にあったから、それと区別するためでしょう。母には妹が2人いたけど、そのうちの1人が云うには、「姉さんのように頭が良くなかったから、私は市立に行ったのよ」ということだった(笑)。
M ぼくの北高での経験から云うと、ぼくのいた当時はまだ戦前から続く〝良妻賢母〟型の女子教育の雰囲気が残ってましたね。北海道で最高の〝良妻賢母〟を育成することを目的に設立された学校でしょう。
星田 よくそのように聞いたけど、まあそうなんでしょうな。
M お父さんの方はどうして北海道にいらしたんですか?
星田 そこがよく分からないんだ。
M 学校は北大だったんですか?
星田 うん、当時の北大(北海道帝国大学)ね。中学校までは九州の田舎の学校を出てる。当時のいわゆるエリートコースである旧制高等学校には入ってないんだよ、親父は。それがどうして北大に進むことになったのか……当時はすでに「札幌農学校」ではないな、北海道帝国大学農学部畜産学科に入ってる。「第二畜産学科」だったかな。畜産科を出ると、当然そのカリキュラムの中に入ってるからだろうけど、自動的に獣医の資格を持てるんですよ。だけどさらに東北大の医学部に入り直したらしいんだよね。牛・馬の医者より人間の医者の方がいいと思ったということなのか……。
M それでとにかくお父さんはお医者さんになるんですね。
星田 私も子供の頃には一時期、仙台にいたことになってる。母親からも「あんたをおぶって街へものを買いに行った」と聞かされてるし、数ヶ月ぐらいか1年以上か、いたらしいんだけど記憶には全然ありません。
M 東北大の医学部といえば、前身は魯迅やなんかが通った医専(仙台医学専門学校)ですよね。
星田 そういう細かいことはよく知らない(笑)。とにかく記録を見ると、当時の父は東北帝大の医学部附属病院の医局に勤めていたことになってる。さらにその経歴のところには「医学部および農学部を出た」とあるから、ということはつまり、東北大の医学部を出たということなんだろう、その結果として東北大の附属病院の医局に勤めておったんだろう、とあくまで私が推測してるんですね。
M 東北大もそうだろうし、北大なんかもっとそうだろうけど、何て云うんだっけ、〝何とかスピリッツ〟……フロンティア・スピリッツじゃなくて、とにかく北海道大学には他の大学と違ってこういう理想があります、みたいな言葉があるよね。
小川(北大生) 実学のナントカ、じゃないですか(笑)。北大の場合はもともと農学の学校だし……。
星田 〝クラーク精神〟とか?
M いや……何かあったような気がするんだけどな。
小川 ありましたっけ?
外山 現代の北大生には伝わってない、と(笑)。
M 小川君は北海道の出身だからあまり意識しないかもしれないけど、今でも内地から来る学生たちの中には、ある種の理想主義というか、〝夢〟みたいなものを抱いて入学してくる人も多いんじゃない?
小川 そうですね。
星田 ウチの親父にもそういうものがあったのかどうか、そこらへんは聞いていないけれども。
外山 星田さんのお父さんが北海道大学に進んだ頃って、創立何年目ぐらいの時期ですか?
M 建学からはかなり経ってるでしょう。
星田 親父の場合は、卒業は大正末だね。
M 明治に作られた札幌農学校から始まって連綿と続いてるわけで、廃止論も時々出てたみたいだけど……それはともかく、仙台で病院に勤めてたのが、なぜ大陸に渡ることになったのかは聞いてますか?
星田 とくに聞いてない。だけど想像はできるよね、あの当時の風潮として。*2)
外山 医者として渡るんですか?
星田 うん、向こうでも医者をやっておった。当時の日本の風潮として、今後は大陸に進出しなくちゃならんという、そういうふうに政府やとくに軍部が宣伝しておったし、それに動かされたような部分はあっただろうと思う。
M 大陸にいた子供の頃の友達に、北海道や東北の出身家庭の子弟はいましたか?
星田 いや、大陸に渡った圧倒的多数はやっぱり九州からの人たちだった。
M へー、そうですか。
星田 西の人たち。大阪より西のほう。
M 渡ったのは中国の東北部ですよね?
星田 当時は中華民国の察哈爾省です。あそこにもやはり九州出身の者が多かった。その次に北海道の者も案外多かったけれども。
M 満州だとまた違ったんでしょうね。農民が大量に入ってただろうし。
星田 満州国ができてからは、農家の次男・三男のはけ口ということを軍部も充分に考えておったらしいから、そういうこともあったでしょう。だけど私たちのいたところは、農民として行く者はほとんどいない。
M じゃあ、それこそ公務員とか……。
星田 あるいは商工業。あのあたりに来ておったのはそういう、商売をするような方面の人たちだね。農民はほとんどゼロではなかったかな。
M 大陸に渡った時のことは覚えてらっしゃるんですか?
星田 うん、大連港に上がった時から覚えている。
M 記憶の上では、そこから星田さんの人生が始まるわけですね(笑)。
星田 そうねえ……かすかな記憶をつないでいくと、そのあたりから大体おぼろげにあるんだ。大連港に着いた時も、天気は良かったとか、それから向こうの子供たちが小さな船でこっちの大きな船に近づいてきたとか、そういうことはよく覚えてるな。
M いくつぐらいの時ですか?
星田 満3歳。3歳半になるかならないか。……記憶は断片的だけれども、あとは大連港の埠頭の情景。当時も〝東洋一の大埠頭〟と云われておっただけに、立派なものでね。それから何十年も経って大連港に行った時にも、「ここだった!」ってすぐに分かった。正確な日付は分からんけど、大連港に上がったのが昭和9年の夏。で、それからすぐに行ったのが……文章にも書いたけど、常に日本の大陸進出計画の第一線の場所に行ってるんですな、ウチの家は、どういうわけか。大連港に上がって、すぐに当時の満州国熱河省の承徳に行く。この前年3月に日本軍が熱河省を占領してるんだ。満州国はすでに建国されてたんだけど、当時の中国側の見方では、熱河省は「東北3省」には入らない。黒竜江省・遼寧省・吉林省が中国側の云う「東北3省」なんだね。ところが日本側の考えでは、熱河省も当然「満州」の範囲に入るはずだ、ということになる。なぜならば北京との間に長城線がある、と。万里の長城の1つが通ってるんだね。したがって熱河も中国にとっては〝塞外の地〟であるはずで、「満州」だ、と日本側は見なしていた。ところが満州事変の後に戦争はいったん一段落して、そこへ中国側の申請を承けて、日本の侵略行為を調査するために国際連盟からリットン調査団が来たでしょ。国際連盟は、これから調査をするから日本は一切の軍事行動を止めろと云うし、実際、日本は軍事行動を止めた。そういう状況の中で軍部が、熱河省も満州の範囲に入ってるとか云い出したんだ。ここも取ってしまえ、と。政府としては、ちょっと待て、今は国際連盟が調査に入ってるところだからそれはマズい、とまあ何だかんだといろいろ話があって、だけど結局は軍が行動を起こして熱河も取ってしまったんだね。その結果として〝国際連盟脱退〟ということになる。まさにその熱河に、その翌年に行ってるんだから。33年3月に熱河占領、34年夏にウチの家族は大連港に上がってすぐ熱河に行く。
M 子供心には、当時は熱河の治安はどうでしたか?
星田 子供だから情報もそう多くは集まりゃせんけど(笑)、日本人が襲撃されただとか何だとか、そういう記憶はまったくない。
M 隣近所の日本人や中国人の子供と遊んだ記憶はありますか?
星田 中国人とはない。というのも、我々が行った先は承徳にあった青木病院という、おそらく親父とはもともと医者の関係でつながりができておったんだろうけど、その病院があるから承徳に行けばいいということで行ったんだったと思う。で、親父はそこに勤めておった。熱河には1年ばかりいて、ただちに今度は察哈爾省の張家口というところに移る。その頃にちょうどまた日本の軍事関係の動きが何かあるんだよな……(自作の年譜を見て)これだ、35年6月の察哈爾事件。当時よくあった、日本軍が現地の軍閥の互いの軋轢やなんかの隙間を利用して、くさびを打ち込むような作戦ね。日本側に味方をしそうな者に何らかの行動を起こさせる。それをきっかけに仲裁だとか何だとか云って介入して実績を作るという、これはまあ当時の日本軍の常套作戦だったわけだ。何べんも失敗してもいるんだけど、失敗すれば引いてまた別の手を考える。そのうちの1つが察哈爾事件で、これも失敗したんだけどね。でもこれによって、このあたりに軍がいるのはよくない、中立地帯とすべきだと云って、軍閥の宋哲元の軍を察哈爾省から撤退させたんだよ。「土肥原・秦徳純協定」というので空白地帯ができたのが35年の6月で、同じ10月には我々の家族はその察哈爾省に移ってるんだから。
M ほー(笑)。
星田 この時代の私の一家は、なぜか日本軍のそういう作戦の先端、先端を行ってるんだ。今考えてみると、だよ。どういう関連があるのか、ないのか、まったく分からん。最近になって調べてみて、ふと気づいたことなんだな。
M 小学校に入るのは察哈爾省ですか?
星田 そう。張家口には日本領事館があって、〝領事館立〟というのか、〝日本人居留民団立小学校〟というのに入った。それが昭和12年4月だから、その3ヶ月後には盧溝橋事件がある。やっぱりそういうことの起きる先端、先端に行ってるんだ(笑)。
M その小学校には中国人は入ってこないんですか?
星田 日本人だけ。だって〝日本人居留民団立〟なんだから。
M 中国人の学校はそれとは別にあるんですね?
星田 うん。
M 学校から家に戻ってきてから中国人の子供と遊ぶということはあったんですか?
星田 そういうことはあった。ウチは病院だからね、入院患者の大半は中国人だったし、そこらへんに付き添いやなんかで子供もチョロチョロしてる。言葉は通じなくてもどうにかなってたよ。入院患者はウチの〝お客さん〟でもあるしね。
M 中国人の入院患者を見て、当時、貧富の差なんかを感じたことはありますか?
星田 そういうことを見分けられるだけの年齢にはまだ達してなかった。そもそもウチに来るのはある程度の階層の人たちだったかもしれないし、やはり当時は日本人の医者というのは少し高度のものと見られておったような感じはある。
M 小学校時代に受けた教育は、いわゆる軍国教育ですか?
星田 今からすれば、まあそういうことになるのかな。当時の文部省による教育が向こうでもそのまんまおこなわれていた。ただ私のいた日本人学校は、1年生全員で6、7人だったか、当時はそんなにたくさん日本人居留民はいないから。小学校全体でも、さて20人もいたろうか。中国人の民家を借りて建てた小学校だしね。建物はけっこう立派でしたよ。
M 小学校ではどんなことをして遊んだか、覚えてらっしゃいます?
星田 最初の学校にいたのは2、3年で、やがて大きな学校が建てられてそちらへ移るんだけど……なにしろ男の子が5、6人で、女の子が1人というようなクラスだからね、1年生の時は。遊びといっても、あまり記憶にはないな。2、3年生になってからの記憶はあるけど。2、3年生の頃は、あの当時の子供たちがよくやってたような……〝駆逐水雷〟か、そういうものをやってたな。
M ん?
星田 そんな遊びは戦後の人は知らないか(笑)。
小川 どんな遊びですか?
星田 まあ陣取り合戦の1種ではあるね。まず帽子を正面に被るのが〝戦艦〟。横に被るのが〝駆逐艦〟だったかな? それから後ろに被るのが〝水雷艦〟。それで、〝水雷〟は〝戦艦〟に近づいて触れば〝撃沈〟したことになる。〝駆逐艦〟は〝水雷艦〟を追っかけて、これまた何かやると〝撃沈〟したことになる。まあそんなようなルールがあって、それに従って……。
M グー、チョキ、パーみたいに、勝てる相手と負ける相手がいるわけですね。
星田 そうそう。勝てる相手を追いかけてやっつける。最終的には〝水雷艦〟が敵側の〝戦艦〟を沈めたら勝ち。
M 2つのチームに分かれるんだ。
星田 うん。
外山 鬼ごっこの、ちょっと複雑な……。
星田 ルールがいろいろあってね。で、それがやはり〝駆逐艦〟とか〝戦艦〟とか、軍国時代にふさわしい設定になってるわけだ(笑)。私たちは〝駆逐水雷〟と云ってたけど、別の町では別の名前がついてて、日本全国に同じような遊びはあったらしい。何か違う名前を聞いたことがあるけど、内容を聞くとほぼ同じだった。
M 星田さんは中国語も堪能でいらっしゃいますが、それはいつ頃どういう形で覚えたんですか?
星田 〝堪能〟ではないよ(笑)。いつ頃も何も、必要があれば人は何でも覚えるんだよね。つまり例えば何かものを買いに行くとする。コレと指差して「いくらか?」と訊いて、あとは数字の読み方をちょっと覚えて、いくらであるか分かってお金を出す、これだけできれば買い物はできる。それぐらいのことはすぐできるようになるから。
M 駄菓子屋みたいなものはありましたか?
星田 中国の駄菓子屋に行くことは禁止だった。
M え? それは学校で禁止されてるんですか?
星田 いや、親父も禁止されてた(笑)。どこでどんな菌をもらってくるか分からないってことでね(病院勤務だから、ということか?)。だけども食べ物以外は買い物に行ったことはある。食べ物は、日本人がやっている店と、ロシア人のパン屋には行ったな。ロシア人のパン屋は、他の店よりもちょっと高いけれども、やはり高級なんですね。
M つまり黒パンではなく、白い……。
星田 うん、そう。けっこう旨かった。ロシア人の店に行っても、やはり中国語でやりとりしてた気がするけど。向こうもそれぐらいの会話はできるでしょうし……。中国人の子供との関わりというのは、やはりウチの病院に来ていた人の付き添いの子たちぐらいで、その中には私より少し上ぐらいの、日本語の上手い女の子がいたね。家族とは中国語で話してるけど、我々のところへ来ると実にちゃんとした日本語で話す。今にして思えばどういう教育を受けたのかと不思議だけど、あるいは自然に覚えたものなのか、私のほうは彼女の日本語ほど上手には中国語は話せなかった。日本人小学校でも5年生になれば中国語の時間が正課になるんだけどね。ただ私の場合は5年生が終わったところで日本に来てしまったから、1年間しか習ってないけれども、それはちゃんと中国人の先生が来て教えてましたよ。ちゃんとした本格的な教え方だったように思う。
M それはやっぱり植民地を統治する人材を育成するような趣旨ですか?
星田 うーん……1年間しか習ってないからねえ。ただ日常生活に不自由がないように、ということなんだろうと思ってたけど。教科書には、スポーツ関係のことや家族生活のことや、いろいろ出ておったな。
M 教科書は1冊ですか?
星田 そうだね。
M その1冊に文法から何から全部まとめられて?
星田 いや、文法云々ではなく、言葉ってのは使って覚えるものだから。「你来、我去、他来、不来」で始まってたな、あの教科書は。「あなたが来ました、私が行きます、彼が来ました……」、というようなことから第1課が始まる。やがて「スポーツをやっていますか?」、「泳げますか?」とか、家庭で「どんな料理を作りますか?」とか、そんな例文が出てくる。そのまま今でも覚えていればよかったんだけども(笑)。
M 日本に戻ってくるのはいつ頃ということになりますか?
星田 小学校5年生が終わってからだから……。
外山 敗戦で引き揚げてきたわけではないんですね?
星田 他の家族はそのまま残っておったから、彼らは敗戦での引き揚げになるけれども。
M 星田さんだけ日本に戻したのは、お父さんの判断ですか?
星田 うん。親父が自分と同じ学校に私を入れたかったんじゃないかと思う。親父が出た熊本県の八代中学に私も入ったんだから。小学校6年生の春に、北京を経由して、朝鮮半島を通って……当時は「急行大陸」というのがあってね。北京発・釜山行き。
M 広軌ですか?
星田 もちろん全部広軌。
M 朝鮮半島も広軌だったんですか?
星田 うん。
外山 〝コーキ〟ってのは?
M 狭軌・広軌。広軌は新幹線タイプの線路だね。
星田 日本の線路は幅が1・067メートル。大陸の広軌は1・435メートルだったかな。……朝、北京を発って、日が暮れる頃に奉天、今の瀋陽あたりに着く。夜明け頃に鴨緑江を渡って、ずーっと丸1日かけて朝鮮半島を南下して、釜山で夜になる。それから釜山で連絡船に乗る、と。
M 関釜連絡船ですね。
星田 当時はそう云ったな。下関と釜山を結んでおった。
M じゃあ、ここからは日本の話になるんでしょうけど、中国時代の話で何か云っておきたいこと、云い忘れたことはありますか?
星田 1度、戦争で避難したことがあるね。盧溝橋で昭和12年7月7日に戦争が始まったでしょ。北京の方ではドンパチやってたけど、張家口の生活は何ら変わらなかった。住民の大多数は中国人で、そこに日本人も混じって住んでおるような形だけれども、それまでと同じように暮らしてたね。ただちょっと思い出すのは、〝反日行動〟というのか、日本に対する抵抗的な、〝デモ行進〟とまで云えるのかどうか、そんなような行動があったことはどこかで見てる。それが盧溝橋事件の前だったか後だったかは記憶がはっきりしない。断片的な記憶だけど、街を歩いていて、向こうの方に中国人の群衆がいて、こっちに向かって何やら叫ぶんだ。それで時々、ものが飛んでくる。木っ端や石だね。今から思えば不思議な気がするのは、その石なんかは人を狙って投げてはいないんだよ。飛んでくるんだけど、全部ちょっと離れたところに落ちるんだ。つまり、彼らは抵抗の意思を示す何らかを叫んでおる、と。ものを投げるのもその意思表示の一環だろうが、人には1つも当たらないようにしてる。人を傷つけることが目的ではない、ということは子供にも分かった。そういうことがあったな。
外山 張家口には〝日本人地区〟みたいなところがあったんですか?
星田 いや、とくになかった。日本人もバラバラに住んでた。
外山 じゃあどこに向けて投石してくるんですか?
星田 それはよく分からん。あるいは日本人の大人も、学校に行く子供に一緒について行ってるような状況の時だったかもしれない。
M 〝集団登校〟みたいなことですね。
星田 この頃どうも不穏だからということで、日本人は列をなして子供を学校に送る、というようなことになってたんだったかもね。とにかく向こうの方で中国人たちが集団で何か叫んでいた、という光景を覚えてる。で、盧溝橋事件からひと月以内の頃だったと思うけど、避難するという話になるんです。きっかけはおそらく通州事件だったのではないかと思う。北京の東のあたりに冀東政府というのがあって、そこは日本軍に味方するはずだったんです。だけどその兵舎を日本軍が誤爆したことが発端だと思うが、その地にいた日本人の大半が冀東政府によって殺された。2、3百人かな。この通州事件が在留日本人にはかなりのショックを与えたんでしょう。戦争が始まってるんだし、どんなことが起きるか分からない。徴発したのか契約したのか、バスやトラックを集めて、それらに分乗して張家口を脱出したのは、日程ははっきりしないが、7月中か8月か、やっぱり夏のうちだったな。まず北の方へずっと行って、張北(ちゃんぺい)に着いた。ここまで来るともうほぼ内蒙古草原の端っこになる。出発した時にはだいぶ暑かったけど、張北にはもう霰が降ってたなあ。霰だったか霙だったか……。しかし今から思えばそんなところに日本人経営の旅館があったのかどうか、あるいは中国人の旅館に泊まったのかもしれないけど、北京の方では戦争をやってるけど張北まで来るとそんなこともあんまり関係なかったのか、とにかくそこで1泊してね。そこからさらに土倫のあたりを通って、興安嶺を越えて、満州国の範囲まで入れば当時の日本人にとっては安全地帯だった。ともかくそういう避難ですね。こっちはまだ小学1年生で、張家口が危ないとかそういうことはよく分からないし、何だか楽しかった記憶しかないけれども(笑)。こっちにすればピクニックみたいなものだから。夏の内蒙古草原なんて、実に綺麗なものなんだ。花が一面に咲いてて、それを摘んだりして遊んでた(笑)。ノロっていう、野生のシカも走ってる。すごく足が速くて、時速50~60キロぐらい、あるいはもっと速いとも聞いた。そんなのがバーッと走っていくのを「わー」って見てる(笑)。だからこっちは面白かった記憶しかない。親のほうはそれどころではなかったんだろうけれどもね、戦争難民なんだから(笑)。
外山 最終的に落ち着くのは、最初にいた承徳というところなんですね?
星田 元いた同じ家に避難したわけではないと思うけど、承徳にあった日本人学校に一時的に転校。
外山 最初に1年ぐらい承徳にいた時期というのは、まだ日本軍が熱河省を占領して間もない頃で……。
星田 私は学齢に上がる前のことだけどね。
外山 避難で再び戻ってきた頃には情勢もだいぶ安定してたってことですか?
星田 日本人小学校もできてたぐらいだし……学校は山の上に建ってたな。
M 大きな学校ですか?
星田 小さくはなかった気がする。そりゃまあ、張家口で最初に入学した小学校は全校生徒が20人ぐらいだからね。
M 先生も一緒に避難したんですか?
星田 先生のことは知らん。日本人は全員脱出したと思うから、おそらく一緒だったとは思うけど。
外山 避難からは結構すぐ戻るんですね。
星田 秋口には戻る。すぐに日本軍が張家口をまた占領したからね。その占領作戦をやったのが東条英機の部隊。当時は東条英機は関東軍の参謀か何かだったのかな。
M じゃあ関東軍としてもかなり重視していた場所なんですね。
星田 「満蒙は日本の生命線」とよく云ってたし、満州には満州国を作ったけれども、蒙古にまではまだ手が伸びていない段階。いろいろと工作をやっては失敗を繰り返していたようだけれども、とにかく何か因縁をつけては「ここは中立地帯とする」などと云って向こうの軍隊を追い出して、やがてまた何かあれば口実をつけて今度は自分たちが駐留する、ということを繰り返しておったんだね、あの頃の日本軍は。
M 小学生の頃に好きだった女の子とか、いないんですか?
星田 子供どうしの付き合いの中でそんなこともあったかもしらんけど……あんまり記憶にはないな(笑)。名前を覚えとるような子もいるから、あるいはそういうこともあったかもしらんけれどもね。しかし結構な長い距離を歩いて日本人小学校に通ってたなあ。学校を建てるために校庭を掘っておったら、墓が出てきて、それがどうも日本人のものだった、ということもあったね。骨壺やらが出てきて、それに日本語の書かれた紙が入っていて、たぶん我々が入るよりも早く張家口に入っていた日本人がそこに墓を作って、たまたまその同じ場所に学校を建てたんだな。
M じゃあわりと早くから日本人が入植していたような場所なんですね。
星田 北京側からもモンゴル側からも交通の中間点にあたるような、要衝でもあった。チャハルっていうのも、そもそもモンゴル語だしね。「張家口」というのは中国名だけど、蒙古名では「カルガン」という。港というか船着き場というか、あるいは人が盛んに行き来する交易場というか、そんなような意味らしい。で、中国側からも一応、あのあたりはモンゴルの範囲内だと見られていたようです。したがって「満蒙は日本の生命線」という日本側からしても、ここらあたりまでは進出しなきゃならん、ということでもあったんだろうと思う。梅棹忠夫なんかも張家口にいたんだよ。北東アジア研究所だか何だかというのが張家口にあった。
外山 その頃すでに梅棹忠夫は学者だったんですか?
星田 京都大学を出てすぐの頃。モンゴルを含む北東アジアの研究を今後やっていこうということで、張家口に来ていた。
M 彼は興安嶺の踏査なんかもやってましたよね。
星田 当時はまだラクダを使った隊商なんかもよく通ってたよ。何十頭というラクダに荷物を積んで、モンゴルの方からやって来て、張家口を通って、北京まで歩いていくんだ。
M それを星田さんも見られたんですか?
星田 何度も見た。北京へ行くのもあり、北京から戻ってくるのもあり、全部フタコブラクダでね。アジアはフタコブで、ヒトコブっていうのはアフリカの方なのかな?
M 中東はそうですね。……学校教育についてですが、小学校で何か軍国主義教育的なものは経験されましたか?
星田 当時のごく普通の文部省の教育。
M その〝普通の〟というのが、ぼくらにはよく分からないわけで(笑)。
星田 文部省の教科書を使った教育だよね。
M 道徳教育なんかもあるんですよね?
星田 当時は〝修身〟と云ったけど、修身は当然、〝忠君愛国〟である、と。教育勅語による教育なんだから。「いったん緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」という、つまり、何かあれば兵隊として前線に出よ、ということだ。そういう教育はもちろんあったし、しかも日本にしてみれば最前線のような場所だからね。近くに軍隊も駐留してるし、「兵隊さんのおかげです」というようなことはいつも云われておった。まだ小学生だし、軍事教練のようなことはないけど、その程度のことはあったし、それは日本全国どこでもそうだったでしょう。
外山 星田さんは子供だったとはいえ、軍人との交流はあったんですか?
星田 学校でそういうことをさせたというのは特になかったな。
外山 いや、学校でというのではなくても。
星田 自発的に遊びに行ったことはある。というのも、軍隊には普通の家庭よりもいい菓子やら大きな餡パンやらあって、行くとくれるもんだから、それを目当てにこっちは軍隊に遊びに行きたがるんだ(笑)。
M 駐屯地は近所にあったんですか?
星田 というより、あの町に何ヶ所あったかな。まあ2、3ヶ所はありましたよ。それだけ張家口という場所を重視していたということだろうけれども。
外山 じゃあ個々の軍人さんの家ではなく、駐屯地に、その……餡パンをもらいにいくわけですか?(笑)
星田 歌を歌ったり、彼らの話を聞いたり、いわば一種の〝慰問〟に行ってるような体裁だったけれども、こっちの側としてはその〝副産物〟が目当てであって……(笑)。
M じゃあこの後は日本に戻って、まずは九州での話になるんでしょうけど、とりあえずいったん休憩を挟みましょう。
外山 せっかくだから山本桜子も起こしてきましょう。
(まだ休憩中の雑談から録音再開)
星田 ……子供はとくに悪気もなく悪いこともするからね。拾ってきた頭蓋骨に眉毛を描いたりヒゲを付けたりね。
M サイテーだ(笑)。
星田 今だから「悪いことをしたなあ」と思うけど、子供の時分はそこらへんにあるものは何でも遊び道具だから、そういうこともしておった。先生もそれを見てたけど、とくに何も云わなかったな。仕方ないと思ってたんだろうね。
M 死体が転がっていたその場所というのは……。
星田 学校からそう遠くない野原。
M そこが戦場だったんですね。
星田 回収して弔う人が誰もいなかったんだろう、そのまま白骨になっておった。
外山 それは最初に張家口を占領した時のものですか?
星田 いや、東条兵団が攻め込んで再占領したばかりの頃だったから。
外山 だけどそれだとまだ戦闘が終わってまもなく、ウジが湧いてるぐらいの段階じゃないですか?
星田 我々が張家口に戻ったのは戦闘が終わってほどなくで、学校に行ってもブスブスと銃弾の穴だらけで、ここらへんも戦場になったんだな、と。学校からそう遠くないところにそんなふうに死体もゴロゴロ転がっていて……。
外山 この自筆年譜によれば戦闘の後、3、4ヶ月後ぐらいですよね。それぐらいでもう白骨化するものなのかな。
M 武器は転がってなかったんですか?
星田 それは覚えがないなあ。
M 転がってれば絶対それで遊んでますよ(笑)。
星田 おそらく武器は日本軍が回収したんでしょう。死体は放っとくとしても、武器は回収しないと、それを使ってゲリラをやる奴が出てきたらマズいと考えるだろうからね。
M 休憩中に出てきた〝お隣りさん〟の話をもう1回お願いします。
星田 録音はもう始まってる?
M 気にせず、リラックスして話していただいていいですよ。何だったらまあ、1杯でも(笑)。
星田 ともかく張家口は中国とモンゴルのちょうど境に位置するものだから、いろいろな人が出入りしていたようだ、という話だね。私の家族が張家口に入ったのは昭和10年10月か11月と聞いてる。11月3日に張家口駅に着いたと母親からは聞いておるが、母親の記憶が確かかどうかは保証のかぎりではない(笑)。それでもたしかに寒い日に張家口駅に着いたことは覚えている。最初に入ったのは山側の家で、他にも家はポツンポツンと建っていたな。私たちの家からちょっと離れたところにロシア人の夫婦が住んでる家があった。当時の私からすれば〝老夫婦〟だったという印象になるけれども、親父がそこへ行って、おそらく英語で会話をしてきたんだろう、それによると「あの人たちは庫倫から来たそうだ」って。当時は庫倫という地名を小説やなんかでもよく目にした覚えがあるけど、つまり今のモンゴルの首都であるウランバートルのことだね。当時はおそらく中国人がつけたのであろう庫倫という中国語の地名がよく云われていた。とにかく庫倫から来たというロシア人が住んでいた。ちょっと歴史を考えてみると、モンゴルはソビエト軍の援助によって独立している。私が子供の頃に地図ではまだウランバートルのあたりは中国領になってたけど、ただし「外蒙古」という表記があった。その「外蒙古」がソビエト軍の援助のもとに独立したんだね。そうするとそこまでソ連圏になって、ソ連の影響力が及んでくるし、ソ連から人も送り込まれてくるわけだ。革命で身の危険を感じてロシアからモンゴルに逃げてきていた人たちもいて、彼らにとってはモンゴルももう危なくなってきたと感じるだろう。おそらくそれでウランバートルを脱出して、張家口に来たんだろうな。
外山 調べてみると、モンゴル独立は1924年ですね。
星田 だとすればそれから10年ちょっと経った頃だったわけだね。で、そのロシア人の家の他にもう1つ、日本人の家があって、その黒木さんというのが、当時の日本軍がいろいろと使っておった特務機関と云われる組織の1つで、黒木機関のキャップだった人。蒋介石の政府と和平交渉を進めるに際して、いろいろと工作をやったと聞いてる。あの人は蒋介石と交渉するために重慶に行った人だよ、と親が云っておった。具体的に何をやったということだったかはよく覚えてないが、彼が当時やっていたことは日本の新聞にもかなり出ていたようだから、まあそれなりのことをやっていたんでしょう。黒木さんのところの娘さんと、犬をいじめたり、悪さをして遊んでたら見つかって、私はさっと自分の家に逃げたんだけど、娘さんだけずっと叱られてて、悪いことをしたなあ、と後悔したことを覚えています。
M 甘酸っぱい思い出だ(笑)。
星田 他にこの頃のことで覚えているのは……察南政府ってのを聞いたことがありますか?
M ないですね。
星田 察南のサツは察哈爾のチャの字。つまり察哈爾省の南部に察南政府というのがあって、これは日本軍が作らせた傀儡政権ですね。これが成立したのが昭和12年の9月で、その時には記念式典がおこなわれて、我々も動員されて察南政府発足を祝う歌を歌わされたことを覚えている。当時の日本人小学校の同期会があって、そこへ行ってその話をしたら、1人だけ、女の子がメロディまでちゃんと覚えていたな。歌詞の意味は正確には覚えていないけど、「東からの光によって新しい国を作る」だとか何だとか……とにかく日本の援助によって、新しい明るい政治を作るとかいう内容だね。まあ〝新しい政治〟をどうこうというのは安倍晋三もよく云うけれども(笑)。
M それは小学生で合唱隊のようなものを組んで……。
星田 合唱ではなく斉唱だけどね。中国語の歌詞にカナを振った紙を先生が配って、その時に「こんな内容の歌だ」と説明してくれたような気がする。あれは中国人の先生だったのかな。他にも「東亜行進曲」という歌を当時は街でよく聞いた。これもやはり「富士山からの風を受けて新しい政治を作る」というような、〝大東亜共栄圏万歳〟という内容の歌。
外山 富士山より高い山は向こうにはいっぱいあるだろうに(笑)。
星田 「大東亜行進曲」は日本に戻ってからもしばらくは覚えておった。
M 日本でもラジオなんかで流れてましたか?
星田 いや、日本では聞いたことがない。ただこの歌の作曲者は江文也という人で、日本人だった。〝だった〟というのは、台湾の出身でね。音楽家としてもかなりの人で、昔はオリンピックの時には芸術コンクールも同時開催していたんだが、ベルリン・オリンピックの時だったか、やはり芸術オリンピックを同時にやっていて、その音楽部門で入選したのがこの人だった。日本人で芸術オリンピックに入選したのは、ただ1人この人だけだったと思う。で、この人が作った「東亜行進曲」というのを子供の頃は毎日聞いておったわけだ。
M ラジオから流れるんですか?
星田 街頭にスピーカーが設置されて、そこから聞こえておった。江文也については、しばらく前に誰かが映画を撮っていて、観たかったんだけど観そびれたな。たしか北京におる時に日本の敗戦で、中国側に捕まったんだったと思う。
M 〝漢奸〟じゃないですか。
星田 まあそういうことになるだろうな。それでもその後も中国で音楽家として活動していたような気がする。国の事情があれこれ転変して、なかなか不運な人だったんだね。江文也の奥さんは、5、6年前にその映画ができた頃にはまだ日本に暮らしてて、公開の時に娘も登場して何かスピーチをしたはず。
外山 ウィキペディアによると……。
星田 あ、出てきた?
外山 「肉弾三勇士の歌」もこの人も作曲だとありますね。
星田 そうだったかもしれん(外山の勘違い。「肉弾三勇士の歌」または「爆弾三勇士の歌」は競作でいくつかの作があり、うち中野力作詞・山田耕筰作曲のものが、バリトン歌手としても活躍していた江文也との歌唱でレコード化された)。「♪廟行鎮の敵の陣~」と始まるんだったかな、我の友隊すでに攻む、折から凍る如月の二十二日の午前五時~」と始まるんだったかな(と歌い続ける。与謝野鉄幹作詞の「爆弾三勇士の歌」である。なお星田氏はここまでにも察南政府成立祝賀の歌や「東亜行進曲」の話のくだりで唐突に歌い始めている)。やっぱり子供の頃は記憶力がいいんですよ(笑)。
外山 「蒋介石の国民党政権下では〝文化漢奸〟として10ヶ月拘禁された」とあります。
星田 そこまで書いてあるんだ。
外山 「47年に北京の中央音楽学院教授に就任」、中華人民共和国成立後も音大の教授を務めたみたいですけど、「57年の反右派闘争、そして66年からの文化大革命で〝日本帝国主義の手先〟と糾弾され、地位を剥奪……下放労働に送られた」そうです。
星田 そうなるだろうねえ。
M うーん、大変だ(笑)。
外山 最後は名誉回復されてますけど、その5年後ぐらいの83年に北京で亡くなってますね。
星田 本当に〝数奇な人生〟という人だった。しかし芸術オリンピックにただ1人、日本人として入選したのがその人だということは覚えておっていいと思う。
外山 映画は『珈琲時光』というタイトルです(侯孝賢監督。一青窈、浅野忠信らが出演する劇映画)。
星田 そうそう、〝コーヒー何とか〟だった。
外山 公開は04年です。
星田 じゃあもう10年近く経ってるのか。……他にも中国語のいろんな歌を習ったけど(と、また歌い始める)、中国にいた時期のことで覚えているのはそれぐらいだな。
外山 年譜には「北白川宮永久王の戦死を目撃」とありますけど……。
星田 ああ、それね。北白川宮という宮家は今はもうないよね? この宮家はどういうわけか植民地戦争に関係してるんだ。永久王の父親のナントカ王って人もたしか台湾で戦死だったか、何らか関係するような形で死んでる(間違い。父・北白川宮成久王はパリで交通事故死)。永久王は当時、駐蒙軍つまり蒙古駐留軍の参謀か何かということで張家口に来ておったんだね。で、昭和14年9月4日だったかな、軍隊の演習があって、それに何かの形で参加させられたんだったか、ただの見学だったのか、とにかく我々も集められて学校の近くの高台に登っておったんだ。やがて演習が始まると、ちょうどよく様子が見える。手前に川があって、そこに日本軍の将校らがいて、演習を指揮してた。よく見えるところと遠くてよく見えないところもあったけど、そのうち飛行機がバーッと急上昇したのが、失速して墜ちたんだよ。それがちょうど参謀の永久王がいたところを直撃して、重傷を負って、まもなく死んだんだね。〝目撃〟というのは、飛行機が墜ちるところを目撃したということで、北白川宮が死んだのを直接見たわけではないけれども。後日、新聞に〝戦死〟と出た。演習を見たことは他にもあったな。〝見学〟ということだったんだろうね。
外山 ウィキペディアによると、翌日には「死亡が発表されたが、具体的な地名、死亡の状況は軍事機密として伏せられていた」ということです。
星田 そうだろうな。だけど私はその場所をはっきり覚えてるし、今行っても「ここだ」と指差すことができるよ(笑)。あの川は「清河」といって、大水の時以外はほんとに綺麗な川だった。雪どけや大雨の時には濁流が滔々と流れていた。下流は北京の方へ行って永定河になるんだけど、途中で盧溝橋の下を流れてる川でもある。
M 目撃した時には、山で遊んでいたわけではなくて、学校に動員されて集められていたんですね?
星田 とにかく整列させられておった。単にそこで演習を見学していたのだったか、そこから演習の場所へ移動するということだったのか、何か先生からの説明はあったと思うけど、ちょっと思い出せない。でもちょうど演習がよく見える場所だったし、やっぱりそこで見学ということだったのかもしれん。その北白川宮を診たという医者から、ウチも病院だったから話はいろいろ漏れ伝わってきたんだろうね、母親が云うには、その時の北白川宮は片足がもげた状態であった、そして「宮様は〝赤ベコ〟をしていらした」って。〝赤ベコ〟って分かる?
外山 〝赤フンドシ〟ですね。
星田 そうそう。九州ではフンドシのことを〝ヘコ〟って云うんだね。
外山 何かそういうCMを昔、福岡でやってたもんで……(シーナ&ザ・ロケッツのギタリスト・鮎川誠が出演していたラーメンのCM。〝ヘコ〟がどうこう云っていた)。
M そうか、宮様でもフンドシはなさるのか(笑)。
星田 そういうことだね。
M そんな時のために金のフンドシでもしてればよかったのに(笑)。
星田 そうこうして日本に来るんだけど、向こうでは文部省の教科書を使って、標準語で授業もおこなわれてるでしょ。だけど私が来たのは熊本県のある町で、日常語はもう全然違うと云っていい。最初はまず会話が通じない(笑)。
外山 熊本弁ですか?
星田 しかも地方ごとにまた全然違うんだ。例えば私がいたのは八代市だけれども、そこから鉄道の駅を2つ行ったところになると、もう言葉が違う。同じ学校にいても言葉が違って、あいつはこう云うから坂本村の者だ、とか分かるらしい。とにかくそういう土地で、どうにか普通に会話ができるようになるまで半年ぐらいかかった気がする(笑)。もちろん彼らも教科書は標準語なんだし、こっちが標準語で云えば、こっちの云ってることは分かりはするよ。だけどそれに対してただちに標準語で応じることはできないから、向こうが何を云ってるのかはよく分からないんだ。やはりこっちが現地の言葉を覚えなきゃどうにもならない。
小川 熊本には家族で移ったわけではないんですよね?
星田 私が1人で。
M 親戚か何かの家に世話になったということですか?
星田 そう。
外山 それはどうしてそういうことになったんですか?
星田 親父の意志だろうと思うが、さっきも云ったように、自分が出た学校に私も入れたかったのではないか、と。
外山 最初は中学校ではなく……。
星田 小学校6年生に転入した。その次の年に受験をして中学校に入る。県立八代中学校ですね。そこに4年生までいた。
外山 あ、旧制か。小学校から中学校に上がるタイミングは、旧制でも今と同じなんですか?
星田 うん、4月。
外山 いやいや、年齢です。
星田 そうだね。小学校6年が終わって、中学校に行きたい者は試験を受けて進む。当時は中学校は義務教育ではないから。
外山 で、中学校は今と違って4年間、と。
星田 中学校は5年間。私は卒業せずに4年で中途退学です。中学時代は大部分が戦争の真っ只中ですね。今度はアメリカとの戦争で、学校も臨戦態勢になる。当時の中学校は全部そうだったと思うけど、ウチにも配属将校がいた。軍事教練をやる担当者だね。
M どういう人が配属将校になるんだろう?
星田 それはやはり軍から人が派遣されるんだと思うよ。
M でも本当に優秀な軍人は前線に送るでしょ?
星田 退役した人とかだね。私のいた中学校にも退役した人が1人、それから中国でいろいろ暴れて、戻ってきたという若い人が1人いたな。その若い方の、鈴木中尉だったか鈴木大尉だったか、「おまえらは本当の戦争がどういうものだか知らんだろう」というので、いろいろ話してくれた。第一線での経験を持った人からすれば、当時で云う〝銃後〟の人たち、日本にいる人たちの様子に歯がゆい思いをしている部分もあったんだろうね。例えば、この部落に日本軍の情報を漏らしてる奴がいるようだ、ということになったらどうするか。指示をあおいだら「全員処分せよ」、それで仕方なく部落の中国人を全員集めて殺した、というようなことも我々の前で話してくれた。その時に彼は、「戦争は殺し合いだ。殺さなければこちらが殺される」と云ってたね。その村に入った当初は、村の人たちは日本軍と普通に付き合ってるように見えたんだけど、どうも敵側に情報が漏れている。最初に入る時に日本軍歓迎の花火を上げているように見えたんだけど、実はその花火が暗号で、こちらの兵力やら行動予定なんかを敵に知らせておったらしい。それがやがて分かってきて、スパイを処分せよという話になった。それで結局は皆殺しにした、って。
M 本当に歓迎の花火だったんじゃないですか?(笑) 花火が暗号だった、なんて話は他で聞いたことがありませんよ。
星田 ともかくその配属将校の話ではそういうことだった。
M まあ実際そういう経緯で殺したんでしょうね。
星田 銃剣で殺したそうだ。
M それは授業の中で話してくれたんですか?
星田 いや、臨海学校の時だったな。夏休みに希望者だけで行くもので、全員が参加していたわけではないが、かなりの部分は参加しておったね。
M 何人ぐらいの前で話してくれたんですか?
星田 50人もいないぐらいだったかなあ。場所は水俣に近いところだった。水俣病の事件の頃にもよくテレビに映っていたかもしれんが、実に綺麗な海なんだ。水も青いというより緑がかったような海で、その向こうには天草の島が見えるという、とてもいい場所だったけれども、そこで水泳訓練やら何やらね。その合間に、実際に戦争を体験された鈴木先生の話を聞きましょう、ってことだったと思う。
外山 軍事教練というのは、太平洋戦争が始まってからのことですか?
星田 いや、それは明治の時代からそういうものはあったと思うよ。大学に軍事教練を導入するというので何だかんだと騒動になったのは、明治大正の時代じゃなかった? その頃にはすでに中学校ではおこなわれていたということでしょう(明治時代から「兵式体操」という軍隊式の集団訓練はおこなわれていたが、多分に形式的なもので、第一次大戦を経て大正末から各学校に将校を配属する形での本格的な軍事教練が始まった。この制度導入に前後して各地の大学や高校で学生らによる反対運動が高揚した)。中学校5年生になると実際に銃を持っての訓練があったそうだけど、4年生の時には……あ、私が4年生の時はちょうど学校閉鎖だ。昭和20年4月から、国民学校(現在の中学2年までに相当)以外の学校は全部閉鎖された。文部省の〝決戦ナントカ教育令〟とかいうので(決戦教育措置要綱)。
M 生徒たちを労働力として使いたいということでしょうか?
星田 それはそうだろうね。そもそも勉強なんかしてる場合ではない、戦争がすべてだという時期だったし。学徒も軍需工場なり軍隊なりに動員される。
外山 年譜にある「空襲警報が出ると生徒は交代制で学校に駆けつけ防空隊として配置につく」というのも……。
星田 それはまだ学校閉鎖になる前の話で、文部省令云々とは関係なく、当時はもう学校が自主的にそういうしくみを作ってたんでしょう。
M 九州の場合は、サイパン陥落(44年7月)よりも前から艦載機はやって来るようになってたんじゃありませんか?
星田 B29が初めて日本に来た時は、サイパンからではなかったですね。最初は大陸の基地から来ていた。
M それはどこへ戻るんですか?
星田 もちろん大陸へ戻る。
外山 つまり蒋介石の支配地域から……。
星田 うん。成都か重慶か、あの付近の基地から発ったB29が、当初は八幡製鉄所を目標として飛んできてた。だって大陸から九州まで来て帰るぐらいのことなら簡単だからね。
M じゃあ我々はやはり重慶まで攻めなければならなかったんだ(笑)。
星田 まあ、それができなかったわけだけれども(笑)。ともかく昭和で云えば18年頃からかなあ、サイパンが陥ちる1年ほど前からだと思う、昭和18年の5、6月頃からは大陸から来るB29に何度も空襲されてる。
M へー、そうですか。
星田 私は九州にいたから、何度も空襲警報で退避やら何やら、よく覚えてる。まあ東京なんかの人にはピンと来ないだろうな。
外山 年譜には、42年(昭和17年)の4月18日にB25が日本各地を初空襲、と注記があります。
星田 それはドーリットル(後述)のやつだね。
M それも大陸の基地から来たんですか?
星田 いや、あれは航空母艦から。
M あ、東京も空襲したというやつですか?
星田 東京も、その他あちこちを空襲した(東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸の6都市)。
外山 九州にはそれより前から来ていたってことですか?
星田 いやいや、それよりは後。時系列は年譜にまとめてあるから、それを見ればおおよそ分かると思うけど、空襲の歴史を云えば、まず真珠湾をやられて、南方も日本軍にかなり占領されて、アメリカとしては、士気を上げるためにも何かやらなければならない、ということで考えたのが、航空母艦を日本近海まで行かせて、そこから発進した飛行機であちこちに爆弾を落として大陸へ逃げる、という方式ならやれると判断しておこなわれたのがこの昭和17年の最初の空襲で、その時の指揮官がドーリットル中佐という人。
M たしか何機か撃墜された機もありますよね?
星田 航空母艦で日本近海まで来たところを発見されて、母艦は飛行機を発進させるだけさせて粟を食って逃げ帰ったらしいけど、飛行機を飛び立たせたら母艦はそれで任務完了だし。で、それらの飛行機が関東から関西にかけての各地に爆弾を落として、それによってまあ、本土が空襲されたという精神的なショックを日本に与えることはできただろうね。米軍機の中には中国の基地まで無事に帰れたのもあるし、途中で撃墜されたりして捕虜になったものもある。その捕虜となったアメリカ兵のうちの何人かが、九州大学医学部で生体解剖の実験に使われた(間違い。大戦末期の45年5月に九州で撃墜されたB29の乗組員たちだったようだ)。その事件は知ってるだろ?
M 聞いたことがあります。
外山 遠藤周作の……。
山本 『海と毒薬』!
星田 そうそう、あれ。敗戦後の東京裁判でもだいぶ糾弾された事件だね。関係した者で死刑になったのも何人かいる。ともかく日本への最初の空襲は、ドーリットルの航空母艦から発進した、昭和17年4月18日ですね。その時は全土に空襲警報が出た。
M カッコいい!(笑)
星田 敵機が初めて日本国内にやって来たんだから。その次に今度は、中国の基地から八幡製鉄所なんかを目標として飛んでくるようになるんだ。九州まで来て爆弾を落として帰るだけだから、充分に余裕を持って飛んでくることができる。東シナ海を渡ればすぐ北九州の工業地帯があるんだもん。あそこは何度か爆撃されてる。
外山 八代も空襲を受けたんですか?
星田 それは本当に戦争末期の頃にね。大きな軍需工場もないし、向こうの主な目標はやっぱり京浜とか阪神とか、そういう重工業地帯だから。
外山 八代には工場がいっぱい建ってる印象なんですが、あれは戦後できたものですか?
星田 当時あったのは私たちが動員された航空燃料の工場ぐらいだったね。他に当時はまず浅野セメント(現・太平洋セメント)あって、セメントもまあ戦争になれば軍需物資だけどね。それからその近くに昭和農産化工株式会社という名前の……今は「日本アルコール」か何かになってるのかな?(「メルシャン株式会社」という酒類の製造販売の企業のようだ) アルコールを作ってる会社だけど、アルコールも当時はブチルアルコール(ブタノール)が航空燃料にも使われておって、そこへも我々は何度か動員されたよ。あそこへ行くと良かった。というのもブチルアルコールも原料はコメとか砂糖とかサツマイモとかなんだ。つまり〝バイオ燃料〟の草分けは日本軍なんだね。とにかくそこへ動員された時にはイモやら何やらあるから、それを齧って……(笑)。こっちとしては当時は少しでも食糧のあるところへ行かされるのがいい。国民はロクに食えなかったからね。あそこはいいところだった(笑)。だけど当然そこも戦争末期になると〝軍需工場だ〟というので狙われる。我々も動員されてそこにいるから、我々も攻撃目標だよね。自分を攻撃目標にして毎日のように空襲されるというのが、戦争末期の1、2ヶ月。自分に向かって飛んでくる弾の音の響きは、ドラマなんかでやってるような、あんなものではない。自分で体験すれば、全然違うと分かる。
M 爆弾に笛がついてて、ヒューッって音がするんでしょう?
星田 ああ、そういう音はするけど、それが聞こえた時には……。
M もう〝終わり〟ですか?
星田 いやいや、音がした時点でその弾はもう遥かに自分のところを通り過ぎてる。ヒュッと音がした時には、その音の原因となってる弾は絶対に当たらん。どこか他のところへ落ちた弾の音がそんなふうにヒュッと遅れて聞こえるんだ。そこらへんの感覚が分からんでしょ?
M そうですね。
星田 あまりそういうことを書いてあるものはないようだ。とにかく自分の方を狙って撃たれた弾は、まず自分に当たった場合は「やられた!」となるよね。あるいはすぐそばの何かに当たってパチンと音がして、それによって撃たれてることが分かる。その後それに続いてヒュンッという音がする。
M つまり弾が音速より速いからなんですね。
星田 うん。で、その後でさらに向こうが発射したババンッって音がする。飛行機で急降下して撃ってきてるわけで、飛行機の爆音がその後に続く。
M あ、面白い。
星田 自分の方に向けて撃たれた弾が、外れてすぐ近くの何かに当たったとする。するとその当たったパチンという音、そしてヒューッという飛んでくる音、ババババッという発射音、最後に飛行機が急降下するグワーンって音、そういう順序で聞こえる。
M 参考になる話だ(笑)。
星田 ドラマでもマンガでも、空襲の音の描写は全然違っていて、自分に向けて撃たれた経験がないんだなと思う。そんな体験をしたことないでしょ?
M ないですねえ(笑)。
星田 だけどあの頃は我々は毎日それをやられてたんだもん。我々のいた工場を目がけて向こうは爆弾を落としてくるし、急降下しては機銃をバーッと撃ってくるんだ。それで自分に向けて撃ってくる弾の音も、毎日とは云わんが、ちょいちょい聞いてるからね。防空壕に入ってる時なんかだと、周りは土で、最初は周りの地面を弾が穿つプスプスッて音から始まる。それは小さな音で、でもその後にヒューッ、ババババッ、グワーンって。まあ自分の方を目がけて撃たれたなんて経験のある人はもう少ないだろうからな。私はその生き残りだから、そういうことを知ってるわけです。戦争末期の軍需工場時代の経験の1つだ。
M そのアルコール工場なんかの労働者はみんな学生たちですか?
星田 それは当然その会社の本来の従業員もいたはずであり、そこに動員されてきた学生やその他の人々もいたはずである。ただ例えば朝鮮人がどうこうという話は当時はまったく聞いた覚えがないし、いたのかどうか分からんね。学生に関しては、当時であってもやはりそれなりの配慮はされていたみたいでね、爆撃された後の始末なんかにはあまり使われなかったな。負傷者が出たりした時には、「学生は帰れ」ってすぐ帰されてた。我々のいた工場のすぐ隣にアルコール工場があったわけだけど、アメリカ側にもいろいろ情報は入ってるだろうし、航空燃料を作ってるのはここらしいというんでやっぱり狙ったんだろうね。港もあって、船着き場に船が着いて、資材を積み込んでる時なのか降ろしてる時なのか、その船が爆撃で沈められて30人ばかり死んだことがある。あの時も学生は帰されたかなあ。だけどその負傷者が運ばれてきたのが、私が住んでいた家の近くの病院なんだ。運び込まれるところを私は見ていて、どうなってるんだろうと密かに様子を窺ってたら、病院からの排水もドブにそのまま流されてたんだけど、そこへ真っ赤な水がドバーッと流れてきた。船が沈められた場所から私が働いておった工場まで、百メートルぐらいは離れておったかな。あるいは何百メートルか。
M 学生同士では普段どんな会話をしていました? やっぱり主に食い物の話とかかな?
星田 食い物の話もしたし、あるいは工場での、何時から休めるだとか、監視の兵隊が時々来ては気合いを入れていくんだけど、その兵隊どもの悪口だとか(笑)。
M 〝気合いを入れる〟というのは、ビンタとか、殴ったりするわけですか?
星田 そういうことはなかったな。まあ説教だね、「たるんどる!」とか。海軍帰りの者たちで動かしてる工場を見学させられたこともある。するとたしかに軍隊調にピシパシッとやっておって、「これを模範にしろ」ってことなんだろうね。だけど、海軍帰りの人たちのところがメシが良かったのかどうかは知らんが、こっちは腹が減ってるからなあ。いつも腹が減ってて、あまり元気は出ないんだ。あの頃は1日に2合3勺の配給で……。
M それは白いメシですか?
星田 いや、当時の配給のコメは7分づきだから、白いメシは目にすることがない。ただし家で一升瓶に入れて棒でついたり、コメつきの臼もあったけどね。あの臼は北海道では見ないな。こないだ松下村塾か何かの再現映像で見たけど、足で踏むような臼があるでしょ。あれは西日本には一般的にあって、ウチにもあった。こっち側でペダルみたいなものを足で踏むと、向こうにある臼の上の杵が上がって、足を離すと落ちるんだ。慣れたら踏むのは本を読みながらでもできるから、そんなふうに勉強しながら仕事をしておった。ともかく7分づきで配給されても、こっちで白いコメにして食うことはできたね。
M だけど……。
星田 うん、ちょっと目減りはする。あるいはコメを増やして食べる方法もいろいろ考えたな。〝楠公炊き〟なんていうのもあって、あれは私もよくやった。
小川 ナンコウ炊きって、どんな字を書くんですか?
星田 楠木正成の〝楠公〟だね。なぜあの炊き方が楠木正成と関係あるのかは分からんが、炊く前にコメを軽く炒るんだ。それを炊くと倍以上に膨れる。
山本 へー!
M だけどカロリーは変わらないじゃないですか(笑)。
星田 変わらん上に味も落ちる(笑)。楠公炊きは戦後の学生時代にもよくやったよ。少しでも膨らませて食いたいからね。
M それは九州だけのものなのかな?
星田 全国的にやってたと思うよ。
M 初めて聞きますね。
星田 そう? とにかくそんなふうにして一時的な満腹感を得ていた。すぐに腹は減ってくるんだけどね。だって実際には空気で膨らませてるだけなんだもん(笑)。
M 配給にはイモは?
星田 イモはいくらでもあった。戦後の九州での学生時代も、朝はまず粥、昼はイモを1つ2つ、夜ようやくコメのメシが出る、そういう生活が3年間ずっと続いたな。戦争中より少しはマシになったかな、という程度。
外山 ん? もう話は戦後に移ってるの?
M いやいや、まだ聞きたいことはある。
星田 今のはちょっと話が飛んだだけで……やっぱり今の人は〝楠公炊き〟は知らんだろうな(笑)。
山本 やってみよう。
M げっそり痩せるぞ(笑)。
星田 一時的にたくさん食ったような気になるだけだからね。
M ……星田さんは、自分のいる工場が空襲を受けるだけでなく、どこか何キロも離れたようなところが空襲を受けてるのを例えば高台から眺めていたとか、そういう体験もありますか?
星田 そういうこともよくあった。空襲警報が出ると集められて、防空隊としていろいろやらされてたな。防空監視とか情報伝達とか係が振り分けられて、情報伝達の者はラジオで情報を聞くんだが、「何時何分、敵何目標、豊後水道を東北西に云々」とやってるのを他の者に伝えて、その内容が構内放送で流れたりもする。情報伝達の係もよくやったな。
M 防空監視は?
星田 それもやった。
M 双眼鏡を使うんですか?
星田 双眼鏡もあったとは思うが、肉眼だったかなあ。いずれにせよ音が聞こえたらまずそっちを見るから。やがてはそれにも慣れてくるけどね。爆音が聞こえて、そっちを眺めて、「敵機何機、天草上空を北進中」などと伝える。近くに来れば「警戒、退避」となって、退避と云っても防空壕に入るだけなんだが。
M 主には日中に艦載機がやって来る感じですか?
星田 そういうこともあったし、いろいろだよ。B29も時に来てはおったな。工業地帯を目標にしてる時はかなり高く飛んでて小さく見えたけど、B29の低空が来るのはやっぱりサイパンが陥ちてから後だな。沖縄を取られてからはあらゆる種類の飛行機が連日連夜やって来るようになる。初めの頃は軍需工場のある地域を重点的にやっておったようだけども、それも大体はやってしまったのか、一般の民家にも時々落としていくようになったね。アメリカ軍としては、「軍事目標以外は爆撃しておらん」と一貫して云ってるようだけれども、やっぱりどの戦争でもそう云うんだ(笑)。だけども現に民家もやられておるからな。特に焼夷弾での爆撃は、非戦闘員である一般の住民がおるところを計画的に焼き払ったわけだし。
M あれは云い訳できませんよね。
星田 しかしその爆撃をやった奴に勲章をやったのが日本政府だからね(笑)。
M 8月9日の話も……。
星田 長崎の原爆だな。あれは私は眺めておった。
M 最初にピカッと光るでしょ。それは見ました?
星田 見るというか……。
M 感じた?
星田 どこにいたって見えたよ。
M 風景が白くなる感じですか?
星田 青いものがパッと光った感じだったな。あの時はいい天気だったけど、ピカッとやられた時には私は屋内にいて、鋳物工場の中で鋳物の洗浄をやっておったんだ。そしたらその時に青い光がパッと一瞬光って、それはみんな感じた。屋内にいても、「ん? 今何か光ったぞ」となるんだ。そのうちに外で「あれは何か?」って騒ぎだす。我々も外に出てみると、西の方の空に丸い雲がワーッと上がっている。
外山 キノコ雲が……。
星田 〝キノコ〟という印象は全然なくて、何に見えたかと云うとボーブラに見えた。
外山 ボーブラ?
星田 カボチャだね。腹が減っておったしな(笑)。向こうのカボチャはヒョウタンみたいな形をしたものが多いんだ。ちょうどそんなような形の雲が上がっておるから、〝ボブラ雲〟だと思ったな。それがぐんぐん上がっていく。それは方向から云って、熊本との間にちょっと山があるんだが、その向こうは有明海で、有明海のさらに向こうには雲仙岳があって、これは大きく聳えていつも見えている、その雲仙岳の向こうから雲が上がってる。雲仙岳が火山だというのはみんなよく知ってるけど、1発だけ煙が上がるような噴火があるかな、何かヘンだな、というのが最初の印象。だけどすぐに思い出したのが広島の〝新型爆弾〟というやつで、「あれか?」と。
外山 広島についての報道はすでにあったんですか?
星田 それはもう8月6日のその日のうちに大本営発表があった。あの時は「B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり」と発表されて、〝少数機〟で〝相当の被害〟ということは、それまでの空襲とは違う何か変わったものが使われたんだな、と思うでしょ。さらに続けて「敵はこの攻撃に新型爆弾を使用せるごときなるも、調査中なり」と発表された。そもそも〝相当の被害〟なんて言葉を使った大本営発表があったのは初めてだったし、よほどすごい何かが使われたんだということは分かる。その3日後だからね、「広島の〝あれ〟か?」と感ずるのは当然なんだ。「あれは原子爆弾だ」と云った人もいた。私もそうだろうと思った。原子爆弾というものを各国で研究しておるということは、科学雑誌にも新聞にももう出ておったからね。おそらくそれだろうと思ったな。
M その後に仲間といろいろ話題になりましたか?
星田 原子爆弾云々については特にない。とにかくすごい爆弾で、敵機が来たらそれが少数であっても身を隠さなきゃならん、という話になったり、あるいは「白いものを着ているとよろしい」とも云われた。というのも、生き残った人たちの中には、黒いものを着ていたらその黒い部分のとおりに火傷を負ってる場合がたくさんあったしね。黒いものは放射線や熱線を吸収するんで、白いものを着てればたしかに多少は防護にもなったろうけど……でもまあ、対策といってもその程度だったな。原子爆弾に対してはもうどうしようもなかったんだと思う。
M 対岸の熊本には、長崎からの情報がそのうち直接に伝わってくるということはありましたか?
星田 敗戦までの数日間にはそんなことはまったくない。長崎の人たちが有明海を越えて避難してくるということもなかったし、いろいろ聞くのは戦後になってからだな。戦後に高等学校へ進んだら、長崎出身の、原爆孤児らしい者もいたね。身寄りをだいぶ亡くしたという話も聞いた。
M じゃあ8月15日までは、普通に時が過ぎていったんですか?
星田 普通にというか、毎日毎日バンバン空襲を受けながらね(笑)。
M これで日本は敗北するだろうという予感や、あるいは情報なんかはありませんでしたか?
星田 情報としては「敵、撃滅」という宣伝が入ってくるだけであって……(笑)。だけど、この様子ではだいぶ危ないなという感じは、みんな持ってはいたと思うけどね。天皇の玉音放送と云われてる例の放送も、あれは前の日からもう予告はあったんだ。あの予告はどんなふうに聞いた? ……ってこの場にはあれを聞いた人はいないのか(笑)。我々が聞いたのは「明日正午、重大な発表があります。ラジオをお聞きください」ということでね、〝重大な発表〟って何だろう、私のいた工場に来ておった学生同士では、手振りで、これ(両手を上げる)か、これ(ファイテング・ポーズ)か、どっちかだろうなって(笑)。つまり降伏か〝最後まで戦え〟か、とまあ他にはあり得ないからな(笑)。で、「いや降伏ってことはないだろう」とか何だとか、夜中じゅう、当日の朝までゴチャゴチャと話し合った覚えはある。しかし実際に放送の時間になっても、それを集まって聞くなんてことは、我々のところではやらなかったね。「各自勝手にしろ」という感じだった。しかもその日は我々の工場は停電で、ラジオなんか聞けないんだ(笑)。それでも聞く奴はどうにかして聞いたし、聞かん奴は聞かなかった。私のいた鉄工所は停電だったが、隣の工場には電気が来ておって、正午のだいぶ前から時々スピーカーでラジオを流しているようだったから、あっちへ行けば聞けると思って、それで行ってみたわけだ。やがて正午になって、放送を聞いた。一番最初の「詔勅が発布されました」というアナウンスは聞こえたな。そこから後が〝玉音〟なんだろうが、なんだかボソボソと不明瞭で、よく分からないんだね。だけど「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」という部分は聞き取れて、「やっぱり降伏か」ということは一応分かったよ。天皇の話が終わったところで、ちょっと解説のようなものも入ったんだったかな。あるいは〝玉音〟の段階でそこも聞き取れたんだったか、「米英両国、支那政府に対しナントカカントカの共同宣言を受諾する旨を通告せしめたり」という箇所があって、そこまで聞いたらもう分かるよね。ポツダム宣言を受諾するというんだから、これはもう無条件降伏だ。
外山 ポツダム宣言の内容は一般にも前から知られてたんですか?
星田 それは新聞なんかにも出てたし。
外山 〝奴らはこんなこと云ってやがる〟的に?(笑)
星田 当時の首相は「黙殺する」というコメントを出した。それは「内容は聞いたが放っておく」というニュアンスなんだろうが、英訳された時には「否定する」とか「拒否する」というニュアンスになる。そこでアメリカは「じゃあこれでもか」ってことで原子爆弾を落とす。
M 玉音放送を聞いた八代の人々の反応はどうでした?
星田 私は1人で隣りの工場まで聞きに行ったんであって、ウチの工場の他の人間はほとんど聞いておらんかったからね。自分の工場へ戻って「負けたようだ」と云ったら、「嘘だろう?」って(笑)、ちょっとガヤガヤとなったけれども、それぐらいで……だけどその日は早めに終業したんじゃなかったかな。帰される前に全員が集められて、工場長から「昼の放送でお聞きのとおり状況が急変しましたので、今日はこれで帰っていただきますが、後日また連絡をします。みなさん、陛下のお志をよく理解され、行動されるように」という話があった。つまり、降伏したんだから、〝堪え難きを堪え、忍び難きを忍〟んで、日本を再建するという気持ちで行動してください、ということなんだろうなと当時の人は受け止めたと思う。そんなふうにその日は解散して、学徒動員もそれで終わり。動員される時に、勤務日誌を書けと云われておって、私は真面目に書いておったので、それを先生に提出して、判を押してもらってね。だから当時の記録がわりと詳細に残って、みなさんの手元にあるのがそれをワープロ打ちしたもの。
M 敗戦に際して、軍の方では特に何も動きはありませんでしたか?
星田 そのへんは全然分からん。私がいた家の隣りにも1人、航空隊の少尉か何かが住んでおったけれども、そういう軍の機密になるようなことを云うわけもないし。
M ……ではまた休憩を入れて、食事にしましょう。午後からは〝戦後篇〟ということで(笑)。
星田 そういうことになるか。しかしここには戦時中を生きた人間が私1人なんだな。
外山 小川君なんか、戦時中どころか冷戦時代も知らないですよ、きっと(笑)。
小川 知らないですね。
外山 昔、ソ連というのがあったんです。
小川 へー(笑)。
M 戦後しばらくは学生だったんですよね?
星田 うん。
M 敗戦の時点では中学生で、それからまず高校に行くわけですか?
星田 そうね。あの頃はまだ旧制高校だな。本来は旧制高校は中学5年を修了して受けるものなんだけど、時に4年修了時点で受ける人もいて、あの時も文部省が4年修了の者も受験することができると発表したんですね。それで受けてみようかと思って実際に受けてみたら合格したものだから、中学校は4年で退学して高校へ進んだわけだ。
M 高校も熊本ですか?
星田 第五高等学校。
外山 のちに熊本大学になるところですね。
星田 かつては夏目漱石やらラフカディオ・ハーンやらが教授をしていた学校。柔道の講道館の人もいたことがあるな(嘉納治五郎。1891〜93年に校長を務めた)。
M 朝鮮戦争が始まるのは高校時代ですか?
星田 50年の開戦だから……大学に入った年だね。
M 大学はどこだったんですか?
星田 九州大学。
M 九大はどこにあるんですか?
星田 福岡。当時は……〝箱館キャンパス〟かな?
外山 〝箱崎〟(福岡市東区)ですね。
星田 医学部は千代町(福岡市東区)にあったけど、他は箱崎だった。
外山 最初は六本松キャンパス(福岡市中央区)に通うんじゃないですか?
星田 六本松は新制大学になってからのもの。新制九州大学というのは、元の旧制福岡高校なんかを吸収して、当初は九州大学の〝分校〟という形で、分校は他に久留米(福岡県南部)にもあったな(元は旧制久留米工業専門学校)。六本松が第一分校で、久留米が第二分校(前者はやがて九大教養部となり、後者の跡地に現在は国立久留米工業高等専門学校がある)。
M で、朝鮮戦争が始まるのが……。
星田 九大に入った途端。4月に入学して、6月には開戦した。
M 米軍基地で働いたそうですが、そのアルバイトの募集があったのはいつですか?
星田 〝アルバイト〟ではないんだ。正規の米軍基地要員の募集。
M 基地は板付(福岡市博多区。現在の福岡空港)ですか?
星田 いや、私がいたのは〝キャンプ博多〟というところ。当時は米軍基地が福岡にもいくつかあったんだ。板付にあったのは空軍基地で、それとは別にキャンプ博多というのが東区の雁ノ巣というところにあった。
外山 海ノ中道の根元のあたりですね。
星田 うん。志賀島につながる細長い半島があるでしょ、その途中に飛行場が1つあって、戦前は日本軍用だった(本来は戦前期の日本最大の民間空港で、戦時中に軍との共用となった)。雁ノ巣飛行場と呼ばれておった。
外山 あ、雁ノ巣飛行場って、今でも何か小さいのがありますね(間違いというか、幼少時の記憶か。77年に全面返還、現在は「雁ノ巣レクリエーションセンター」などとして整備され、球技場などのスポーツ施設群となっている)。
星田 今はどうなってるか知らないけど、とにかく当時はその雁ノ巣飛行場を米軍が接収して司令部を置いておったのがキャンプ博多だね。私がいたのはキャンプ博多の管轄の1つで、施設名としては番号で呼ばれてるだけの、「86DA」というところだった。「DA」はディペンデント・ハウスだな。直訳すると〝独立住宅〟かなあ。元は日本人の誰かお大尽の別荘だった大きな建物が接収されて、米兵用のクラブみたいなものとして使っていた。*3)
M いわゆる〝将校クラブ〟という……。
星田 たぶんそうだったろうね。来ているのは、感じからして〝雑兵〟のようではなかった。私はそのクラブの警備員として雇われていたんだ。
M それは武装して立つんですか?
星田 うん、まあ銃の射撃訓練も受けて、実際に銃を持って敷地内をパトロールしてたな。
M いいなあ(笑)。
星田 何がいいんだ(笑)。……昼間は学校に行かなきゃいけないし、夜間の勤務はあるかと訊いたら「ある」と云うんで、それを志望したわけだね。夕方5時か6時から行って、翌朝までの勤務。
外山 じゃあ寝るのは大学で?(笑)。
星田 いやいや、警備の仕事の合間に隠れて寝るぐらいのことはできるんだ。たしかパトロールの時間が決まっていて、ひと晩に1回、あるいはせいぜい2回、グルッと1周するだけだったしね。かなり広くはあって、林もあったし、草原もあったし、キツネの穴もあった(笑)。米軍は戦争中だし、土日もあまり関係なく基地は機能していたな。やっぱり主に空軍の基地だったんだろう、朝鮮まで飛んで戻ってきたような米兵たちが来て、日本人の女なんかを連れ込んで、毎晩ワイワイ騒いでおった。
M それは朝鮮戦争の具体的な戦況とは関係なく、ずっと同じような感じでした?
星田 たしかに朝鮮戦争では、釜山あたりまで攻め込まれて、米軍がかなり追いつめられておった時期もあったね。開戦当初にかなり追いつめられて、それが秋になって例のマッカーサー戦略で……。
M 仁川上陸ですね。
星田 そう、あれで戦況を盛り返す。その次の年の春までは、私はキャンプ博多に勤めておったが、私の仕事は建物の外を回るんであって、彼らの遊び具合なんかを観察しているわけにもいかないし、その間の戦況の移り変わりが何か反映されておったかどうかは分からん。
M 上官は米兵なんですか?
星田 日本人の勤務者の管轄は「福岡県調達局」というところなんだ。当時は各県すべてに「調達局」があったはず。日本人労務者を米軍に斡旋する事務をやるだけの部署だね。しかしそのおかげで私は19歳の半ばから日本の公務員の身分になってるわけです。したがってその後、大学を卒業して日本の会社に就職した時に年金の手続きに行くと、「あなたはもう加入していますよ」と云われた。米軍関係の費用は日本が全部負担していて、私の給料もそこから出ていて、つまり公務員の扱いだったんだね。敗戦後の日本政府の年間予算の、一番大きな項目は「終戦処理費」というやつなんです。それが年間予算の半分ぐらいだったはずだよ。米軍を養うことに当時の日本のお金の大半が使われていて、その中から私ももらっていたわけだ(笑)。おかげで年金にも早く加入できた。
M 警備員をやっていた期間は……。
星田 1年にも満たないかな。もうちょっと長くいてもよかったのかもしれない。まあでも、おかげで米軍の軍事訓練も受けられたし……。
M 訓練はどういうものですか?
星田 射撃の訓練、団体行動の訓練……日本軍の「気をつけ」とか「休め」なんかも元は英語からの翻訳なのかと思ったね。
M 「気をつけ!」なら「アテンション!」ですね。
星田 全然そうは聞こえないけどね。どれも「ハッ!」のようにしか聞こえない(笑)。でも「アテンション」というのは「注意せよ」ということだし、「こっちを向け」ということだから、とにかく注意を惹ければいいんであって、たしかに「ハッ!」で用は足りるんだ(笑)。「休め」は何だったかな……そう、「アリーズ!」とか「ハリーズ!」って聞こえた。字を見たら「アット・イーズ」と云ってて、つまり「休め」だな。「敬礼!」は「ヘンサルー!」って、それは「ハンド・サルート」、〝手の挨拶〟。エスペラント語の「サルート」(挨拶)と同じだなと思った覚えがある。当時は他にもいろいろ覚えておったし、もっと複雑な命令もいろいろあったけど、大半は忘れてしまったね。こっちは命令されたとおりに動くだけで、会話なんかはほとんどなかったし。
M それぞれの基地に星田さんのような日本人勤務者がいるわけですね?
星田 「警備員」というのは向こうの云い方では「セキュリティ・ガード」で、それらを束ねておったのが、日本語ではどう訳されていたか、「セントラル・レイバー・オフィス」というところで、〝職業紹介所〟ということかな、警備員も第何班、第何班というふうに組織されておって、我々の班の班長は福間(福岡県北部)の基地に勤めておったね。
M 星田さんが書いた手記によれば、その時に朝鮮行きの話もあったそうですね?
星田 うん。日本人の警備員の組織の長から誘われたんだが、その時に彼が云うには、「朝鮮人は信用できないから、日本人が行ってくれると助かる」って。それはつまり、ある者が韓国側の人間なのか北朝鮮側の人間なのか、顔を見て区別することもできない、ということだろうね。言葉でも区別できない。それで朝鮮に渡った人がいたかどうかは分からないけど、少なくとも私の周りからは誰も行かなかった。
M 星田さんはなぜ行かなかったんですか? だって給料は上がるんじゃないですか?
星田 それは上がったかもしれんけどね……。あの時には海上保安庁は人を出していて、そのことは年譜にも注記してあるでしょ。実際に行った者があるかどうかは知らんが、とにかく我々のところにまで誘いが来たという話。
M ことによると向こうに行って戦死していた可能性もありますね。
星田 さすがに戦死した者があれば表沙汰になるんじゃないかな。海上保安庁の場合(秘密裏に掃海活動に動員され、その過程で計77名が命を落とした。実は日本は敗戦後5年目にして早くも具体的に戦争に参加していたことになる)、長らく秘密にされておったのが、事実上〝戦死〟した部下に忍びないということで、当時の指揮官が手記にして事実を公開したわけだけども(78年)。
M 行ってくれないかという打診があったのはいつ頃ですか?
星田 朝鮮戦争が始まったその年のうちだね。米軍も向こうに行ってみて、これは北の工作員が米軍基地の警備員に紛れ込んでおっても分からないと心配になってきたんでしょう。
外山 警察予備隊(自衛隊の前身である保安隊のさらに前身)ができるより前ですよね?
星田 ほぼ同じくらいの時期だと思う。警察予備隊も朝鮮戦争が始まった年にできたんじゃなかったかなあ(たしかに50年8月の発足である)。あれもマッカーサーの指示で作られたようなものだしね(GHQの指令による)。
M ただ警察予備隊の任務は朝鮮に行くことではありませんよね?
星田 うん、あれは日本国土の防衛が任務だから。憲法上〝軍隊〟と呼ぶわけにはいかないから名称を工夫しただけで、事実上の軍隊だ。
M 朝鮮戦争の最中に何か、例えばぼくらも「あれで景気がよくなった」とか伝え聞いてるけれども、社会状況の変化は感じましたか?
星田 私は戦争の前半の時期に学校と米軍基地をただ往復する生活をしていただけで、それ意外の社会のことはよく分かりませんでしたね。月に7千円の給料というのは、当時としてはいい方だったのかな。おかげで少しは家に仕送りもできた。
外山 その頃には星田さんの実家はどこにあるんですか?
星田 大陸から引き揚げてきて、親父の里である熊本県下益城郡。
M ……休憩中の雑談から話が事実上だいぶ進んでしまったけど、敗戦直後の中学・高校のあたりから改めて話していただけませんか?
星田 そうですね。
M 中学には4年生まで行って……。
星田 さっきも云ったとおり、卒業はしておらん。上級学校に試験を受けて入ったんで、中学校は中途退学したことになる。
外山 中学4年生と熊本の五高に入学する間には、ブランクの期間はないんですね?
星田 4年生修了と同時に五高に入った。
M 終戦は中学の時に迎えるわけですよね?
星田 中学4年生の途中。
M その時期に食糧難も体験しましたか?
星田 そうだね。八代の家では、不足の分は農村に買い出しに行っておった。それも当時の法律では食糧管理法違反なんだよね。配給以外のものを買ったり売ったしてはいけなかった。とはいえ当時はみんな大っぴらにやっておったし、時々警察が取り締まるけれども……。
M 警察に見つかるとどうなるんですか?
星田 没収。
外山 すでに戦後の話をしてるんですか?
星田 いや、これは戦時中からの話。食糧管理法は戦後も生きておったけどね。それでも庶民は食っていかなきゃならんから、違法であれ何であれ食糧を買い出しに行くし、だからこそ我々も生き延びられたんだ。法律をきちんと守って、配給以外のものを口にしなかった人は栄養失調で死んだ。
外山 そういう裁判官が当時いましたね。
星田 彼が実証してみせたわけだ。ある意味では彼は裁判官の鑑のような人で、きちんと法律を守ることで、政府は国民の生活を保障しないということを身を以て知らしめてくれた立派な人だ(笑)。
M 裁判官が亡くなった事件は戦後のことですよね?
星田 そうです。あの人の手記にも、「食糧管理法は悪法であるが、私はその法を執行しなければならん身であり、悪法といえども侵すことはできない」と書いてる。苦しい立場だな(笑)。
M 知らんふりして奥さんにでも買い出しをさせればよかったのに。
星田 実際に奥さんはそうしておったんだ。しかし彼は「私の立場を察してくれ」と云って止めたようだね。
M 戦後になって、五高時代にも食糧難は大変でしたか?
星田 学生食堂はあったけれども、朝は粥で、昼は向こうで云う唐芋、つまりサツマイモが1つ2つ、ゴロンとあって、夜になって初めて麦が半分ぐらい入ったコメを食える。そういう生活が3年間続いた。当然それだけでは足りないから、例の違法な買い出しやなんかもやる。当時は炊飯器もないし、林に行って木の枝を拾い、建築現場で木の廃材を拾ってきて、ガスもないから部屋に七輪を持ち込んで、火をおこして鍋をかけて、コメを炊いたりカボチャを煮たりしておった。どうにも食い物がない時には、ヘビなんかはごちそうだったな。アオダイショウとか、栄養も結構あるしね。ネズミを捕まえて食ったこともあるけど、あれは不味い(笑)。そんなふうにいろいろヘンなものも食ったよ。それで何とか生き延びたわけです。
M 五高は試験そのものは難しかったんですか?
星田 難しかったと思う。私の中学校から4年生で合格したのは私1人だった。他にも何人か受けたんだけど、たしかに難しい試験だったんでしょうな。
M 五高ではどんな勉強を?
星田 私は理科乙。当時の学科分類では〝甲〟というのが第1外国語が英語だった。ドイツ語なのが〝乙〟だった(五高はどうだったか分からないが、一般的には他にフランス語の〝丙〟というのもあったようだ)。〝理乙〟というのはつまり医学予備校生だね。
M なるほど。
星田 当時の医学コースは、ドイツ語を第1外国語にするのが普通だった。日本の医学は最初の時期、ドイツの医学をもとに発展したものだからね。ロベルト・コッホなんかの医学が最高のものだと当時の日本では見られていたようだ。私の親父がたぶん東北大にいた頃の本もだいぶ残っておったけど、それらも全部ドイツ語だったな。
M やっぱり星田さんも医者になるつもりだったんですか?
星田 いや、そういうわけでもなかったんだ。あれは学校側が学生を分類して、私は乙に入れられてたんだね。受験の時に家族のことについてもちょっと書かされたんだけど、父は死去しているが医者だったと書いたんで、私も医者になるものと思われたんでしょう。
M お父さんはすでに亡くなられてたんですか?
星田 戦争中に亡くなった。昭和19年5月1日死去です。
M じゃあ大陸で亡くなられたんですか?
星田 いや、その時は何か用事があって日本に来ておって、熊本医大附属病院で死んだ。
外山 病気ですか?
星田 うん、胃潰瘍か、肝硬変か。酒は全然飲まない人だったけどね。
M 五高では文・理、甲・乙と4つに分かれて、勉強の内容もそれぞれ違うんですか?
星田 まず第1外国語が違うし、理乙の場合は医学予備校の側面が強かったせいか、生物の授業が多かったな。
M 五高時代の同級生には、やっぱり医者になった人が多いんですか?
星田 そうだね。同期生の大半は医者になったと思う。
山本 理系で英語の人はどういう専攻になるんですか?
星田 理甲の場合は工学部へ進むのが普通だな。
M 何かサークルには入ってたんですか?
星田 サークルはいろいろあったようだが、私の場合は、エスペラントをやらないかとビラで呼びかけて、それでエスペラント会を作った。
外山 じゃあ五高時代にエスペラントを始めるわけですか?
星田 うん。五高でまずは何人か仲間を集めてね。私は当時は切手集めが趣味で、エスペラントをやれば外国との通信の機会が多くなるだろうから、切手もたくさん集まるだろうと。
外山 たしかに切手収集が動機でエスペラントをやる人というのが、エスペランチストの中に一定の数を占めてるような話は聞きますね。
星田 今でも一定います。実際に始めてみて、前からやってる人のところを訪ねたら、やっぱり外国から綺麗な切手を貼った手紙がいくつも来ておるんだ。やっぱりそうかと思って、それでますますやる気になったんだから(笑)。
外山 そもそもエスペラントというものの存在を、何がきっかけで知るんですか?
星田 おそらく親父から聞いたのが最初だと思う。〝エスペラント〟という名前は出なかったと思うが……〝星田〟という名前に関係あるのかどうか知らんが、子供の頃の私は天文少年というか、月やら星やらを見るのが好きで、当時の子供向け雑誌に『子供の科学』というのがあったんだ。今でもあるかもしれん。
M ぼくの頃はまだありましたね(現在も月刊で発行されているようだ)。
星田 誠文堂新光社発行。それは大陸におった子供時代からずっと読んでおった。野尻抱影(英文学者で、星の和名の収集・研究者としても知られる。「冥王星」の和名命名者)が天文の話を連載しておって、それもよく読んでいた。すると星座の図が載っていて、それぞれの星座にアルファ、ベータとあって、例えばオリオン座のアルファ星はベテルギウスで、ベータ星はリゲルなどと書いてある。ABCは知っておったが、α、β、γというのは何だかよく分からないから、親父にこの文字は何だと訊いたんだ。親父は「それはギリシャ語のABCだ」と云った。後になって親父の学生時代のノートを見ると、ギリシャ語でいろいろ書かれたものもあったんだが、勉強していたこともあるのかもしれん。ともかくその話のついでに、親父が「世界にはいろいろな言葉がある。人間が作った言葉もあるんだ」と云ったんだな。「易しく、使いやすいように作ってあるそうだ」って。その時に〝エスペラント〟という名前は聞いた覚えはないんだけど、その後、古本屋でエスペラントの本を見つけた時に、親父が云っていたのはこれだな、と思った。一番さかのぼると親父にそんなふうに聞いていたのが最初で、五高の時代に古本屋で見つけたのは『エスペラント全程』(千布利雄著・日本エスペラント協会刊・14年)だね。それが始まり。
外山 周りでやっている人とも知り合うんですか?
星田 全然知り合わない(笑)。そんなものをやっている人が今どこにいるのか、最初はまったく見当もつかなかった。まずは古本屋でその本を見つけて、親父が云ってたのはこれだなとピンときた。そこで朝日新聞社に葉書を出したんだ。「エスペラントという国際語があるそうですが、その人たちの団体か事務所がどこかにありますか?」って。やがて朝日新聞社から、「日本エスペラント学会というのがあって、東京に本部がありますから、そちらにお問い合わせください」という返事がきた。それで今度は、当時は文京区本郷にあった日本エスペラント学会に連絡して、書記をやっておった三宅史平(しへい)さんだな、「熊本にはこれこれという人がおりますので、どうぞお訪ねください」と葉書が返ってきた。
外山 そこで……真新しい切手の数々を目にするわけですね(笑)。
星田 そういうことだ(笑)。訪ねてみると、綺麗な切手の貼られた手紙がたくさん来ておった。私もエスペラントを始めてから1年も経たないうちに、外国に手紙を出しましたよ。というのも、本当に簡単なんでね(笑)。そもそもエスペラントの本にはたいてい手紙の例文も載ってるでしょ。〝私はどこに住み、何歳で、公務員だ〟とか、いろいろ。〝学生〟という例文もあって、これだこれだ、と。そして〝どういうことについて文通したい〟、〝切手の交換をしたい〟、たいてい例文もあるから、単語をちょこちょこ入れ替えればそれで文面は完成なんだもん。それを何ヶ国かに出した。しかし当時は外国に手紙を出すのに、1通で当時の日給1日分ぐらいは充分かかったからね。
M じゃあ今に換算すれば6千円とか7千円とか?
星田 そのくらいでしょうね。しかもそれは船便ですよ。航空便にするとさらに高いんだ。船便だと時間がかかるし、向こうから返事が届くまでの間に、次の文面を練っておくこともできる。
M なるほど。初心者にはちょうどいいのか(笑)。初めて受け取った返事のことは覚えていますか?
星田 覚えている。フランスからだったね。しかしフランス人の手書きの字なんて、とても判読できるものではない(笑)。タイプで打った手紙を受け取るようになったのは、だいぶ後のことだな。当時はまだみんな手書きだったと思う。だけどエスペラントの先生のところへ持って行っても判読できないような字なんだ。それを何とか、きっとこういうことだろうと解釈して、切手の交換を希望してる相手には日本の古切手も同封したりして、そんなふうに始まったな。しばらくそういうことをやっておると、当時は外国の切手を見る機会も普通はほとんどないし、外国との文通じたいが珍しいことだから、そういったものを人に見せると感心されるから、エスペラントに勧誘するのにも都合がよかったんだ。それで熊本の一般の人も、学生も、ある程度は集めることができた。そういうものが今も他にあればいいんだけどね。今は切手や文通ぐらいでは人は驚かないからなあ。
外山 まさに星田さんが創始した熊大エスペラント会が、最近ぼくのところへもよく来る熊大生の手によって再建されつつありますよ。
星田 へー、それは日本人?
外山 いや、韓国からの留学生で……(本誌第8号参照)。
星田 ああ、準か。
外山 すでにつながってるのか(笑)。
星田 うん、メールのやりとりをしてる(笑)。
M ……またちょっと休憩を入れましょう(と席を立つ)。
山本 今でも切手つきの手紙でやりとりをしてるんですか?
星田 いやあ、私も今はほとんどやってないね。もちろんメールをやってない人には紙で手紙を出すこともあるけど……今も1人、ロシアのハバロフスクの人とは手紙だな。彼は生活もあまり裕福ではないんだろう、タイプライターも持ってなくて、全部手書きで来る。ロシア人の手書きの判読もまた難しいよ(笑)。だいぶ慣れてきたけど、それでもちょっと苦労する。最近届いた手紙は何とか判読できて、日本語訳をつけて『ヘロルド・デ・ヘル』*4)に載せたのが、どこかそこらへんに置いてあったな。
山本 ヘロール……。
星田 北海道エスペラント連盟(HEL)の機関誌。彼が紹介してくれた「山岳兵の歌」という歌詞を掲載してる。ヴィソツキーの歌らしい。ヴィソツキーは知ってる?
外山 ソ連時代にすごく人気があった歌手ですよね。
星田 うん。ウラディミール・ヴィソツキー。ただ当時の時代背景を知らないと、その歌の良さが日本人には分からんだろうな。背景の説明も入れた方がよかったんだろうけど、今回はただそのまま載せた。
外山 ヴィソツキーはウチのiチューンズにも何曲か入れてあるよ。
山本 へー。いつ頃の人?
外山 80年代初頭とかじゃないかな(60年代に〝吟遊詩人運動〟に参加して弾き語りを始め、80年に42歳で死去)。
星田 わりと若くして亡くなってるでしょ。
外山 〝酔いどれ詩人〟みたいな感じだったはず。彼の〝自由な魂〟とソ連の圧制との葛藤で酒に溺れていって……。
星田 ソ連政府には警戒されていた人物だね。
外山 それでもレコードを出して歌手活動はやれていたわけだろうけど(事実誤認。反体制的な歌詞の内容から生前には1枚のレコードも出せず、歌はカセットからのダビングが繰り返される形でソ連じゅうに広まっていったものらしい)。
星田 葬儀にはものすごい数の人々が参列したらしい(葬儀日程は公表されていなかったにも関わらず、聞きつけたモスクワ市民が10〜20万人も詰めかけたとのこと)。ソ連当局としてはその後もますます警戒しただろうな。
外山 最近VHSを整理してたら古い『ニュース・ステーション』のペレストロイカ特集が出てきて、それでヴィソツキーのこともちょっと触れてたんだ。
星田 ……五高時代の仲間もそれぞれ外国と文通しておったのかどうか、あまりよく覚えてないね。九大にはすでにエスペラント会があると聞いてたんだが、実際に入学してみると、各サークルの新歓のチラシの中にもエスペラント会の名前はなくて、どうもすでに消滅していたらしい。それでは自分で作るかって、新入生なんだけどエスペラント講習会のビラを作って貼り出して、集まってきた中には新入生もいたが大部分は上級生で、新入生の私が指導した(笑)。
外山 九大入学時点では、エスペラントはそこそこ上達していたんですか?
星田 教えることぐらいはできた。文法も実に簡単だし、始めて1年未満の人でもそれぐらいのことはやれる人にはやれる。読むのだって日本語のローマ字読みとほとんど同じで、難しい発音もほとんどないし。
M 九大の学科はどこだったんですか?
星田 工学部電気工学科。
M それはエスペラントと何か関係あるんですか?
星田 何もない(笑)。単に〝電気〟や〝機械〟ならツブシがきくだろうと、就職率のよさそうなところに入っただけだよ。
M 就活派だ(笑)。
外山 五高時代にはエスペラント仲間はどれくらい集まったんですか?
星田 10人も集まったかどうか、という程度。
外山 じゃあちょうど今の準君と同じぐらいだ(笑)。
星田 五高では残り1年ちょっとぐらいの時期にエスペラントを始めたから、量的にはその程度が限界だった。本当は大学受験の勉強も始めなきゃならんぐらいの時期だったし(笑)。
外山 五高時代の他のメンバーはどういう動機でエスペラントを?
星田 それは私と似たり寄ったりじゃないかな。要するに一種の〝敗戦の後遺症〟なんだ。戦時中には、日本は〝世界に冠たる大日本帝国〟である、というつもりでいて、欧米列強がアジアを植民地支配していることも知ってるわけだし、日本がアジアの先頭に立って欧米に対抗して、アジアの名誉を回復せねばならんという、ね。戦争によって決着をつけるとは当初は云ってなかったけど、まあ勢いのおもむくところ、最後はそうなってしまったわけだ。しかもその過程で日本もアジアを植民地化して、最初は朝鮮、さらに満州、蒙古と進出していって、結局は単に植民地帝国主義の後輩国として、先輩国と利害衝突して叩かれた、という結末になる。世界の趨勢というものを当時の外交官なんかも見て知っておったろうけれども、最後には軍部に押し切られて戦争になった。そういう経緯を戦後になって改めて見つめ直して、やはり世界の情勢を自分の目でよく見ることが大事だと痛感したことが1つと、さらに政府の云うことだけを聞いておっても本当のことは分からないということを敗戦によって充分に思い知らされたので、政府を経由せずに外国のことを直接知る手段が必要だということだね。私は敗戦の年かその次の年には、自分でラジオを組み立てて、外国からの短波放送を受信して聞いておったぐらいだ。
山本 それは英語での放送を?
星田 いや、当時は日本語での放送を各国ともやってますよ。アメリカなら「ボイス・オブ・アメリカ」というものをやっておったし、イギリスもシンガポールで中継してロンドンからの放送を日本向けにやっておったし、ソ連なんかハバロフスクからの放送が日本中どこでも聞こえておった。だから短波ラジオを受信できさえすれば、外国語はできなくてもいいんだ。
外山 それは戦後の話ですね?
星田 もちろん戦後だ。戦時中にそんなものを聞いてることがバレたら、たちまちスパイ容疑で引っぱられるよ(笑)。戦後に聞き始めたわけだが、結局どこの国だって「自分の國が一番いい」という宣伝ばっかりなんだ(笑)。もちろんそれらを聞くことで初めて知ることができることもあるけれども、そういった各国政府の宣伝ではなく、一般の普通の人が何を考えておるかということを知る方法が何かないものか、外国の普通の人とやりとりをする方法はないか、と考えたらやはりまず〝文通〟だし、その時に使いやすい言葉としてエスペラントというものをやがて発見するんだ。……五高時代は寮生活だったんだけど、私の同室に文学部かどこかでロシア語をやってる者が1人おり、何人かフランス語をやってる者もいたね。私も何か外国語をやれればいいなと思って、フランス語をやってる者から文法書を借りて読んでみたが、とてもとても……フランス語だと現在、過去、単純未来、ナントカ未来、半過去、大過去って、動詞の変化だけで何ページも説明されてる(笑)。これを全部暗記して使いこなせるようになるのは大変だと思った。では今度はロシア語の教科書を見たら、まず字から違う(笑)。一応はそれぞれ目を通してみたんだ。するとロシア語には、子音の発音に硬変化・軟変化とあって同じ文字なのに発音が違ってきたり、名詞にも変化があって、しかも規則変化だけでなく不規則変化もたくさんあるし、男性名詞・女性名詞・中性名詞と変化も3通りそれぞれ違うんだね。それに従って形容詞にも変化があるし、さらにはロシア語の場合、主格・対格・与格・前置格・ナントカ格・カントカ格と6格あって、文中のどこに置くかで名詞の形も6通りに変わり、形容詞もそれに従って変化する。これだけ覚えないと簡単な話もできないというのでは、とてもじゃないが並大抵の努力ではすまない。そう思ってたところに古本屋でエスペラントの本を見つけたら、文法なんか1ページに全部収まってまだ余裕があるぐらいだ(笑)。ああ、これだこれだ、となったのもエスペラントを始めた理由の1つだね。実際その1ページにも足りないような文法を覚えたら、あとは単語だけ辞書で引けば文章が書ける。
M 九大時代にもずっとエスペラントを?
星田 うん。エスペラント会で活動を続けた。最初の年に私がアルバイトで佐賀県の方に行ってる間に、仲間の学生が高校生を集めて〝サマー・スクール〟とかいって講座を開いていて、その中にエスペラント講座も設けておった。そこに主に集まったのが福岡中央高校という、女子校だったのかどうか、女の子ばっかりなんだ(明治期の創設以来49年まで女子校で、現在もなお女子の比率が高い)。彼女らとの付き合いはそれを機にかなり長く続いたな。その中に湯浅克衛の妹がいた。湯浅克衛は知らんか?
M 知りません。
星田 死んでだいぶ経つし(82年死去)、そうだろうな。湯浅克衛はかつてのいわゆるプロレタリア文学の1人。その妹が福岡中央高校の生徒で、サマー・スクールを経て我々のエスペラント・グループに来ておった。彼は朝鮮育ちなんだね。水原(スウォン)という、ソウルのちょっと南の、昔は王朝の首都だったところで(李氏朝鮮時代の18世紀末に遷都計画があったが見送られたようだ)、今は世界遺産にもなってるんじゃなかったかな(華城という城塞遺跡)、そこで育った人。彼の作品に「カンナニ」というのがあって、それが当時の『平凡』だか何だか、月刊の大衆雑誌に出ておった(元々は湯浅のデビュー作で35年に発表されている。初出時には3・1運動を描いた後半部が削除され、46年に湯浅の記憶に基づいて後半部を復元したものが再発表されたらしい)。それを読んだのはアルバイト先の、伊万里(佐賀県)というところだったかな、非常に印象に残っておったんだ。それがアルバイト期間を終えて九大に帰ってみると、女子高校生のグループができておって、その中に湯浅克衛の妹がいた(笑)。偶然だろうけど、それで湯浅克衛はよく覚えている。「カンナニ」は日韓併合の直後の朝鮮半島で、3・1事件といって、朝鮮独立を叫ぶ朝鮮人たちを日本の官憲がだいぶ殺した事件に関係した話なんだ。湯浅克衛はその時に朝鮮にいて、事件を見ていたんだね。その体験に基づいた作品。彼自身になぞらえられているのがおそらく、朝鮮に赴任しておった官吏の息子という設定の登場人物で、隣りに朝鮮人の家があって、そこに住んでる女の子と仲良くなって、まあいろいろある。最後には3・1運動の弾圧でその朝鮮人の女の子も殺されてしまうという、そういう話だったな。……はて、なんでこういう話になったんだったか(笑)。
M 九大時代のエスペラント・サークルでのいろんなエピソードの1つとして……。
星田 市内の若い層へ向けて活動を拡げたのは、その福岡中央高校のグループ以外に、他にも高校生のグループが作られたと思う。旧制高校から九大の分校になった六本松の人たちにも、ある程度は広めることができた。今でもエスペラントを続けているのはその中でも数人だけどね。福岡には「福岡エスペラント会」というのがあって、それから「九州エスペラント連盟」もあったな。福岡エスペラント会には私もすぐ出入りするようになって、そこの人たちとも親しくなったが、事務局長を務めていたのが、いわゆる〝プロレタリア・エスペラント運動〟を熊本市役所に勤めておった頃にやって検挙されたという人だった。今にして思えば、当時はまだ戦前のそういう時代から数年しか経ってなかったんだな。ともかくそんな関係で、日本のエスペラント運動にも〝プロエス〟(プロレタリア・エスペラント)という左翼系の流れと、そうではないのがあって云々、という歴史もその頃から自然に耳に入ってくるようになったわけだ。後に北海道に移ってきた時にも、当時はまだプロエス系とそうでないのと、やっぱり分かれておった。函館でもそれははっきりと分かれておって、ただ中間派というか、両方に顔を出している人間もいたけれども。
M プロエス系と、〝中立派〟と総称される非政治的なエスペランチストたちとがいるんだ。中立系は、単に政治的な発言をしないだけというのが大半なんだけど、中にはもっと悪い、大政翼賛的だった人たちもいて……。
星田 それはあんまりいないけど(笑)。
外山 もしかしたら〝反英米〟の文脈でエスペラント、ということもあり得たかもしれませんね。
M あり得たと思う。
星田 ああ、それはそうかもしれんな。
山本 ナショナリズムからくるエスペラント?
外山 論理的にはあり得るでしょ?
山本 そういえば柳田国男もエスペラントをやってたとか……。
星田 柳田国男はエスペラント学会の理事もやっておったはずですね。
外山 そうそう、今回こっちに来る途中に東京にもちょっと寄って、スガ秀実さんと会ってきたんだけど、スガさんは最近、柳田国男の思想遍歴を掘っていて(本誌第7号参照)、スガさんの視点は何と云うか、〝柳田国男=隠れアナキスト〟説みたいな感じで、今回の北海道行きの目的を話したら、「柳田はエスペラントもやってたらしいから、そこらへんも訊いてきてよ」と云われていたのを今思い出しました(笑)。
星田 柳田国男は民俗学の人でしょ。〝民衆の歴史〟ということを彼はよく云っておったね。〝国家の歴史〟とは別の〝民衆の歴史〟ということを云っておった点で、やはり反体制的なものを彼は秘めてはおったでしょう。で、〝民衆の歴史〟という分野を作るということで、柳田国男と一緒にやっておった中の1人に、戸田城聖もいるんですよ。
外山 創価学会の(第2代会長。池田大作は3代目)。
星田 戸田城聖が創価学会を(初代会長である牧口常三郎と共に)始めた時は、名称も「創価教育学会」だったし、教育ということに重点を置いていて、〝民衆の歴史〟という歴史観もそれとの関連でしょうね。まあ戸田城聖も治安維持法で検挙されたけれども。
外山 戸田城聖もエスペラントをやってたりしたんですか?
星田 いや、それはないと思う。
外山 スガさんによれば、柳田国男はクロポトキンに傾倒していて、クロポトキンについて講演したこともあるらしいです。
小川 へー。
M 小川君、ちょっとこれ(『日本エスペラント運動人名事典』、以下『人名事典』)で柳田国男を引いてみてくれる?
星田 柳田国男は載ってるよ。エスペラント学会の役員をやってたぐらいなんだから、当然載ってますよ。
外山 ただ柳田国男がアナキズムに傾倒していた可能性について、柳田研究者たちはまだまったく注目していないらしくて、スガさんが研究しているところ。
M いわゆる〝土着アナキズム〟のようなものかな?
星田 そうかもね。
外山 で、柳田国男の一番弟子みたいな連中が戦後の農政官僚の上の方にいて、彼らが農協というシステムを作ったんだって。
M 農協はアナキズムの成果だったのか(笑)。
外山 うん、それがスガ秀実説。
星田 なるほど、それで安倍晋三なんかに目の敵にされてるんだな(笑)。
小川 柳田国男についての記述にはかなり分量が割かれてますね。
M ほんとだ。コピーしておく?
外山 そうですね。ちょっと話がそれ気味だし、コピーして後でスガさんにも送りましょう。
M じゃあ桜子ちゃん、コピーとって。
山本 あ、ちゃんとコピー機がある。すごい(笑)。
外山 話がさかのぼるけど、五高時代のエスペラント会は、星田さんが卒業した後もかなり続くんですか?
星田 私が卒業する時点で、新制の熊本大学が発足してたんだったかどうか(49年5月からなので、おそらくすでに発足していた)、私が教えていたメンバーの中に、その後も熊本大学に残る人がいたんだ。その人に五高時代の資料やなんかも全部渡して、「後はよろしく」と頼んで福岡に移った。それが「熊本大学エスペラント会」として、何年続いたのかは知らないけど、しばらくは続いたようです。私が後を託した人は、今は横浜エスペラント会のメンバーで、日本エスペラント大会(近年は毎年10月開催)で歌の指導や指揮をやってるのはたいてい彼だ。牧野三男。
M 牧野さんを訪ねて資料をもらうといい。
外山 それはたぶん、熊大の学生運動史を日本人学生より研究してる準君がやるでしょう(笑)。
星田 牧野三男は学校の教員になったが、ずっと音楽教育が中心だった。彼はカトリックで、セント・ジョゼフ学院(横浜にある聖ヨゼフ学園のことか?)に就職して、30年ぐらいか、ずっと音楽の指導をしていた。全国コンクールに入賞したこともあるようだし、実績はあるんだと思う。その間はエスペラントとはほとんど縁が切れておったけど、学校を定年退職して何年か経った頃に横浜で会って話して、「どうだ、もう1回エスペラントをやらないか」と云ったら、「やろう」ということで、俄然復帰して、今では日本大会のたびに歌の指導を楽しそうにやってるね(笑)。今年も仙台(今年度の大会開催地)に出てくるはずだ。
外山 当時、やはり敗戦直後の時代には〝エスペラント熱〟というのが多少あったんでしょうか?
星田 〝熱〟と云えるほどのものであったかどうか、こっちは目の前の火をおこすことにばかり集中しておって、全体的にどうであったかは……。
外山 日本では大正デモクラシーの時代に最初のブームがありますよね。
星田 あの時はたしかにバーッと燃え拡がったらしい。吉野作造なんかまでやっておったそうだし。
外山 それが戦後また再燃したりしたのかなあ、と。
星田 それはたしかに多少はあるんだ。〝国際平和の時代〟みたいな雰囲気になると拡大するというのはある。それが現代では、いっそうアメリカの植民地になっていこうというのが日本政府の政策で、自衛隊もアメリカの傭兵にするというんだから、こういう時代にはエスペラント運動が拡がる余地がなかなかないんだな(笑)。
M 伊東三郎さんに会ったのは大学時代ですか?
星田 いや、熊本の五高時代です。彼は戦後ほどない頃、もしかしたら戦時中からかもしれんが、当時はずっと熊本にいた。熊本県鹿本郡内田村ですね(熊本県北部。後に菊鹿町)。奥さんがその内田村の出身だったんだ。出会ったのはおそらく東京でしょうね。東京でも〝プロエス〟と呼ばれていたのか、左翼系の流れがあって、昭和の初め頃に『プロレタリアエスペラント講座』(プロレタリア科学研究所エスペラント研究会編・鉄塔書院・30年)という本があって……。
M だいぶ売れたやつですね。
星田 そうだね。中立派のエスペランチストにも持ってる人が多かった。全6巻とかで、わりと系統的に学習できるようになってて、内容的にはたしかにプロレタリア的だったりもするけど……。
外山 戦前のものですか?
M うん。タイプ印刷なんだ。で、例文が左翼的なんだよ(笑)。
外山 M がよく勧誘用に配ってる緑色の薄い入門書(『新エスペラント講座・入門編』大島義夫著・要文社刊・68年)もだいぶそうですけど(笑)。
M あれよりももっと思想性が強い。
星田 あんなものがよく売れたもんだ。
M 入手しようと思って調べたら何万かしましたよ。
星田 当時いっぱい買っておけばよかった(笑)。
M ひと財産、築けたでしょう(笑)。
星田 ともかくその本の主なところを執筆したのが伊東三郎でね。彼はいろんなペンネームを使っていて、その時は「伊井迂」だったかな。〝イーウ〟というのは、エスペラント語で〝ある人、某〟ということ。本名は、生まれた時には磯崎巌だったと思う。私が知り合った頃には宮崎巌に変わってたね。宮崎は奥さんの方の苗字で、養子に入ったんだろうね。エスペラント文学の方面では、日本ではエスペラント原作の詩人としてはこの伊東三郎が最初に上がるのではなかろうか。エスペラントと云えども文法はヨーロッパ的なものだし、それであれだけの内容の詩を書けた日本人エスペランチストは他にまず見たことがない。もともと詩の才能もあったんだろうが……『エスペランタ・アントロギーオ』というのは読んだことない?
M ないですね。
星田 エスペラント文学選集だけど、あの中にも日本人からただ1人、入ってるよ。それは〝イーウ〟名義だった。「ミ・ヴォーロス・ハーヴィ・スペルスティーチョン」、つまり「私は迷信を願うでしょう」という非常にひねくれた詩。科学的で筋の通ったことを続けていくと、どうしてもどこかで潰されてダメになってしまう、私は迷信によって生きていきたいという内容なんだ。彼が生きてきた時代の日本の状況を考えれば、非常によく分かる気もするけれどもね。
外山 戦前に書いた詩なんですか?
星田 昭和の初めじゃないかな。エスペラント原作の詩集を日本で初めて出したのも彼だと思う。『ヴェルダ・パルナーソ』といって、札幌大学の図書館に1冊あるはずだ。私が寄贈したんだが、〝緑の詩集〟とでも訳せばいいのかな、この中にエスペラント原作詩がたくさん入ってる。あるいは万葉集の部分的な訳も、かなりいい訳で収録されているし、都々逸や小唄なんかの訳もある。エスペラントの総合的な詩人として、日本では彼がやっぱりトップではなかったろうか。
M へー、彼はどこでそれだけの素養を身につけたんでしょうね?
星田 生まれ育ちは岡山県だな。中学かそこらでエスペラントを始めておるし、大学は大阪外語大だったと思う。そこで〝学連事件〟と云っておったし、何か学生運動に関係して放校されるんだ(日本内地では最初の治安維持法適用事件である25〜26年の「京都学連事件」か。伊東は少なくとも24年には大阪外語大に在籍しており、事件では同大からの被検挙者も複数名あったようだ。ただし伊東自身が検挙されるのは32年以降)。
M その伊東さんに星田さんは五高時代、どんなふうに知り合うんですか?
星田 因縁の始まりは農民組合です。つまり戦後ほどない時期で、食う物もろくになく、当時は主食がトマトって時期も私にはあった。熊本は夏になるとトマトがいっぱい採れて、1貫目5円とかで売ってたんだ。コメのメシは少しでも、トマトをいっぱい食ってりゃ、どうにか腹はいっぱいになってたね。アルバイトは職安に行って探すんだが、当時の熊本では日雇いの賃金が日給33円60銭でしたよ。仕事の内容は〝焼け跡整理〟。熊本市は空襲で焼き払われていたからね。とくにまずドブを整理しなきゃならん。ドブ浚いだな。腰以上まで浸かってそれをやる場合は日給が35円以上になることもあった。だけど当時はコッペパン1つが10円だから、3食コッペパンを食ったら1日分の給料が飛んでしまう。しかも仮に3食コッペパンを食ったとしても、当時は10代だしとうてい腹いっぱいにはならんしね。ちょっと大きなパンは20円して、2つ買えば赤字だ。そういう生活をしていたところに、「農民組合の仕事はいいぞ」と聞いた。何よりコメのメシが出るって。それで行ったんだが、たしかに白いメシが出るんだ。ありがたかったな。
M たらふく食えました?
星田 かなり食えた。さすがに農民組合にはコメが豊富にあったね。
M いつだって、あるところにはあるんだな(笑)。
外山 そりゃ農民なんですから、コメぐらいあるでしょう(笑)。
星田 コメのメシが出て、それにちょっと漬け物でもついてれば、もう拝みたくなるぐらいの生活だからね、当時は。しばらく農民組合で仕事をしていたら、そのうち農民組合の熊本県連合会の大会があるから、そこへ行って記録係をやってくれと云われた。行ってみると、そこに伊東三郎、本名・宮崎巌が代議員の1人として来てたんだ。「内田村の宮崎です」って発言してて、農民組合の活動家だったんだな。それが初対面。やがてこの人が昔からエスペラントをやってた大先生だということを知って、エスペラントの話もいろいろとするようになるわけだ。後に岩波新書から出る『ザメンホフ エスペラントの父』という本(50年・伊東三郎名義。ザメンホフはエスペラント語の考案者で、1859年生まれ、17年没のユダヤ系ポーランド人)の原稿を、その頃は書き進めておったね。
M 当時の農民組合の議題は何でした?
星田 あの大会では、農林省がやった何かの調査の資料を公開せよ、という要求が議題の1つに出ておった。
外山 農民組合という組織じたいが左翼系なんですか?
星田 そこはよく分からんけれども、しかし当時の日本の大衆運動はたいてい左翼がかっていたんじゃないかな。GHQも労働組合運動なんかに、共産党の浸透を許すなと云って、ちょいちょい介入しておったし。
外山 労働組合はそうだろうけど、農民というとむしろ保守的なイメージなんですが……。
星田 それでも支配者の側から見れば、そういう大衆運動のようなものは全部アブないんだろう。……12月15日のザメンホフ祭(ザメンホフの誕生日)を白川の近くにあった白川教会だったか、熊本のキリスト教の教会でやったな。あの時は伊東三郎も来て何か話しておった。
外山 その伊東さんはその後もずっと熊本にいるんですか?
星田 いや、それから何年か後に東京に出ます。本郷何丁目だったか、東大の赤門からそう遠くないところに住んでおったね。私も東京へ行く時にはたいていそこへ寄った。
外山 (『人名事典』を見て)戦時中からすでに熊本にいたみたいですね。
星田 疎開というか、一種の避難だな。関西では治安維持法に引っかかって監視つきの身だったから、熊本でも監視はされておっただろうが、関西にいるよりは気が楽だったんじゃないかな。奥さんの里だったわけだが、奥さんの方もあのあたりでは有名だったようだ。私の母も敗戦で引き揚げて熊本に戻っていたんだけど、母の友達でウチにもちょいちょい来ておった中にちょうど鹿本郡の出身の人がいて、何かの拍子でそれも内田村の人だというが聞こえたから、「宮崎公子さんという人がおられますね」と云ったら、「知ってる」って。どうも有名人なんだ。「だってあの方は、ウチの村から初めて東京の女子大に行った方ですから」と云っておった。
M 当時の伊東三郎さんは、どんな風貌でしたか?
星田 まあヒョロッと細く、飄々とした感じで、言葉も格調高くきちんとしておったな。昔の人らしく、非常に礼儀正しくてね。「礼儀正しく図々しいことを云う」と評した人もあったが……(笑)。煙草をよく吸っておったが、誰か煙草を吸っておる人がいたら、「すみませんが、1本ご馳走していただけませんか?」という調子なんだ(笑)。彼は当時、ほとんどカネを持っていなかったようで、奥さんの内職で主に生きておったのかなあ。やがて岩波から本が出ると少しは潤ったかもしれんけどね。
M 初めて伊東さんに会ったという農民組合の大会は何日間ぐらいの開催だったんですか?
星田 私がアルバイトに行ったのは1日だけだったと思うが、大会そのものは何日かやってたのか、あるいは私も1日だけでなく、単に印象に残ってるのがその最初の日だけなのかもしれん。何しろもう70年前のことですから(笑)。会場は熊本市京町何丁目かのお寺だった。……他のところからも伊東さんのことは聞くんですよ。阿蘇の農学校の先生だった、何という人だったか、その人ともどういう因縁だったか、あれもやっぱり農民組合の関係だったかな、伊東さんについていろいろ話してくれたね。私がエスペラントの話を話題にしたからかもしれないが、「宮崎さんはライフワークとして、ザメンホフについて本を書くと云ってます」とその人から聞いた。それは実際に本が出るよりだいぶ前だ。あの阿蘇の先生もたぶん農民組合に関わっていて、たしかやがてレッドパージされてる(笑)。
外山 (『人名事典』を見て)伊東さんの岩波新書の本が出るのは50年なんですね。
星田 うん、だいぶ後だ。私が最初に会ったのは48年とかだから。ちょうど書き進めておった。熊本エスペラント会の機関誌というのが出ておって、その中に伊東三郎の詩もちょいちょい載るんだ。それを見ると他の会員とは全然違う、ピシャッとしたエスペラントでね。詩も見事に韻を踏んでるし、これはなかなかの人がいるもんだと感心したのが、そもそも伊東三郎という存在を知った最初だ。
外山 熊本のエスペラント会は結構な大所帯だったんですか?
星田 いや、そうでもなかったと思う。会長は水前寺にいた神尾さんだ。神尾碧堂という、医者だったな。この人もわりと戦前から長くエスペラントをやっておって……もしかしたらその『人名事典』にも載ってるかもしれない。水前寺の神尾さんの家には私も行った。水前寺公園を案内されたこともあったね。当時の熊本の中心的な会員だった平野さんに連れられて神尾さんの家に行ったんだ。平野さんが担当してたガリ版刷りの粗末な機関誌に、伊東さんの詩も載ってたわけだ。あるいは平野雅曠も載ってるかもしれんな。私が東京のエスペラント学会に連絡をとって、「熊本にこういう人がいるから」と返事が来たので訪ねていったのが平野さんだ。
外山 (『人名事典』をめくって)あ、出てますね。
星田 彼も治安維持法で引っ掛けられてる。
M やっぱりプロエスだったんですか?
星田 本人はとくに左翼というわけでもないんだ。左翼のプロエスの人が熊本市役所あたりに何人かいて、それが摘発された時に関係者として取り調べられてるみたい。
外山 ああ、平野さんという人も熊本市職員だったとあります。
M 五高時代の一番いい仕事が農民組合のやつで……。
星田 当時のアルバイトとしてはね。
M 九大時代の一番いい仕事が……。
外山 米軍の手先、と(笑)。
星田 〝手先〟とまで云えるかどうかは分からんが(笑)、なにしろ公務員扱いで年金にも自動的に加入できたんだから、いい仕事ではあった。まあ出どころは、当時の〝終戦処理費〟という国民の税金でございました(笑)。
M 何も産まない仕事だよ。だって米軍基地を警備してたって、誰も攻め込んでくる奴なんかいないんだから。ヒドい仕事だ(笑)。農民組合の仕事だって、農民たちの日々の闘争の上前をハネてるわけでしょ(笑)。
星田 まあ、それらがどういう役割を果たしたのかは、歴史が判断するでしょう(笑)。
M 五高時代や九大時代に、印象に残る先生とか、面白い人に出会った、というのはありますか?
星田 だいぶ昔のことで記憶もぼやけてきておるけど……(笑)。
M 旧制高校を体験した人は、わりとその時代の恩師の話や仲間の話をしますよね。
星田 私の場合はそれよりも自分の生活を自分で支えることに精一杯だったからな。外地からの引き揚げ家庭で、しかも父親が死んでいなくなってたでしょ。豊野村(引き上げて落ち着いた亡父の郷里)では、やむを得ないことだが、生活保護の母子家庭だったからね。熊本に出た五高時代からは、自分で稼がないとならなかった。学生寮に入ったが寮費は月に二百四十円。寮に入るとき母親から千円か二千円かもらったが、それ以後仕送りはもらっていない。自分で稼がなきゃいけないから、夏休みになるとまず職業安定所に行って登録して、朝は毎日通って、特技も何もないから、日雇いに入るしかない。「何々方面、焼け跡整理、何名」と云われたら、「はいはい」とそこに自分のカードを入れる。たいていはドブ浚いだ。日給33円60銭。そのうち職安で紹介された、学生にも務まるような、もう少し割のいい仕事で、日当50円だと云うのがあったから、シメシメと思って行ってみたら、薬品の調合やら何やらで埃の舞ってる職場で、しばらくいるとあちこちタダれてくるんだ。これはダメだとそこはすぐ辞めて、他にもいくつか行ったな。最後に行ったのは山の……木こりではないな、杉の皮を剥いで、それを売るとか何とか、そういう商売があるんだね。杉の皮剥ぎ。杉の皮を刃物でシャーッと剥ぐ。その仕事はわりと続けたな。というのも、そこには学生に同情的な職員がいて、時間外勤務をやれば1時間あたり何10円かつけると云ってくれて、それで暗くなるまでやったら日に百円近くなることもあった。日に百円といえば、当時としてはかなりのものでね。職安の日当33円に比べたら3倍でしょう。ところがそのうち残業割増は中止になって、おそらく会社の上の方で問題になったんじゃないかな、いいことは長くは続かないもんだ(笑)。割増をつけてくれてた職員は、おそらく「学生を甘やかすな」とガツンと云われたと思う。その後にあれこれ考えて、結局は行商をすることにした。熊本には昔から五高があった関係か、学生に同情的な気風がわりと一般的にあったみたいだ。だから学生が学費を稼ぐために商売をしていると、結構よく買ってくれる。まあ中にはニセ学生もいたかもしれんが、こっちは本物の学生だし、学生証も携帯して……。
外山 学帽もかぶって(笑)。
星田 うん(笑)。そのいで立ちで行商をやる。すると、わりと買ってくれるんだな。何を売ったかな……石鹸が一番稼げたな。それから売薬もやった。
外山 それは〝ヤクの売人〟というのではなく、ですね(笑)。
M アブないなあ(笑)。
星田 やっぱり石鹸や化粧品が一番稼げた。おそらく当時、3年間をかけて熊本全市の家はほとんどすべて回ったんじゃないかと思う。
M それは2、3人で組むんですか?
星田 いや、1人で。……白川の対岸の一角に朝鮮人部落があって、当時は私も短波ラジオでいろんな国の放送を聞いてたんで、ソウルからかピョンヤンからか、朝鮮語の放送も意味が分からずに聞いていて、その中で印象に残った言葉を、行商のついでにウロ覚えのいい加減な発音で再現してみせて、「これはどういう意味か?」と訊いてみたりしてね。そしたら向こうも「たぶんこういう意味だろう」と親切に教えてくれたりしたな。しかし後で思えば、今でも韓国籍なのか、最近よくテレビに出てる学者がいるでしょ?
外山 姜尚中かな?
星田 そう、その人。彼もたしか、その頃に熊本で生まれたとかで(50年生まれ)、おそらく彼の両親の家なんかも回ったんじゃないかな。……年末になると少し力を入れて連日あちこち回って、何日間かで合計千円ちょっとだったか、稼いだんだ。実家に帰る時にそれぐらいの額を持っていけたからね。当時は公務員の月給が千8百円あったかどうかだから、それなりの土産にはなっただろう。まあそんな生活だった。大日本育英会というところから奨学金も貰っておって……。
M それは返済しなくてもいいやつですか?
星田 いや、全額返さなきゃならん。無償の奨学金もどこかにはあったのかもしれんが、私には縁がなかった。私が貰ってた奨学金は、年に千8百円だったかな。それに比べても自分で稼いでる分はかなり多いわけだ。そんなふうにして、どうにか食っておったね。私には夏休み、冬休みといったようなものは全然なかった。休みの期間こそが稼ぎ時なんだから。
M それは九大時代も?
星田 うん、同じ。
外山 九大時代には、米軍の警備以外にはどんなことを?
星田 米軍のは最初の1年ぐらいでしょ。他にはやっぱり行商もしておったが……とにかくアルバイトの募集を常に見ておって、何かあれば行っておったから、1つ1つについてよく覚えてはいないが、試験の立ち会いなんかもあったな。公務員試験やなんかの時の、監視係だね。
外山 九大に入った50年ぐらいにもなると、もう〝焼け跡整理〟みたいな仕事はありませんよね?
星田 戦後5年も経っておればね。しかしそもそも九大の頃にはあまり職安に行った覚えもないな。
外山 焼け跡そのものは50年ぐらいにもまだ残ってはいたんですか?
星田 ところどころにはあった。しかし焼け跡整理のための労務者募集というのは、福岡時代には覚えがない。
外山 行商の〝石鹸〟というのはどこから手に入れるんですか?
星田 それはちゃんと卸屋があるんです。いつの時代も、どんな商品にも卸屋はあって、そこへ行けば卸してくれる。
外山 自分で作ってたのかと思った(笑)。いや、だってエコロジー系の人で、自分たちで石鹸を作るとか、最近もよくやってるじゃないですか。
M やってる。ぼくも今、自分で作って行商すればいくら儲かるかなあって考えてた(笑)。学帽をかぶってさ(笑)。……じゃあ次は星田さんの不得意な、〝勉強〟のことについて訊きましょう。
星田 えーっ!?(笑) しかしそういう問題もあったな。というのも、育英会というのは成績を監視してるんですよ。試験の成績が下がってると、警告があるんだ。こういう成績不振が続くようでは、育英会から〝除名〟っていう言葉を使ってたかな、とにかく奨学金の受給資格がなくなる、というようなことを書いて送ってくる。だから注意されたし、と。こっちにとっては一大事だ(笑)。だけどそれもどうにかしてたな。成績はいつも低空飛行を続けておったが、この次の試験もダメだったら危ないってことになると、教授の教え方にじーっと注目して、どこが試験に出そうか予想して、それがだいたい当たるんですよ。そういうカン、低空飛行からいざという時に上昇する技術はだいぶ身につけた(笑)。そういう時は少しばかりアルバイトを減らしてでも、ちゃんと講義に出て先生の話に耳を傾けておった。そんな具合にどうにか切り抜けて、最後までつながったね。
M ドイツ語は結局どうなったんですか?
星田 それは五高時代の、16歳からかな、第1外国語として勉強しておったし、真面目にやったつもりではある。ドイツ語の実践の1つとして、合唱団にも入っておった。英語やドイツ語の歌もよく歌うんだ。ドイツ人の先生はいなかったが、ドイツ帰りの先生は何人かいたし、まあ何とかなってたんじゃないかな。当時は米軍が進駐してきて間もない頃だったのかな、米軍から学校に連絡がきたことがある。「この学校には合唱団があると聞くが、クリスマスに教会で歌ってもらえまいか」って。軍の施設の中に教会もあるんだね。それで行ったこともあった。1度でなく何度か行ったな。米軍のバスが正門の中まで迎えに入ってくるんだ。そしたらヘンな噂が立った。「米軍が学生を拉致した」って(笑)。単なる誤解だし、それでとくに問題になったわけでもないが、当時は例えば京都大学で事件があったりしたからね。原爆の被害について、当時はまだ詳しいことはほとんど報道されていなかった。しかし現地に入って調べた人もあるから、そういう情報をもっと広く日本国民に知らせる運動をやろうって、同学会という京大の学生団体が始めたんだ。それがただちに米軍の占領政策への違反行為とされた。つまり、占領軍に対して悪感情を起こしたり、批判・非難するような宣伝をすると犯罪だったんだよ。原爆被害について声高に云うことは、米軍はこんな残虐行為をやったという宣伝である、と。それで京都大学の学生が何人も捕まった。表向きの理由は原爆云々ではなくて、学生運動の中で反米的な演説をやったとか、いかにもありそうな内容で引っ掛けられて、有罪になった者もいたんじゃなかったかな(手持ちの資料をざっと調べたかぎりでは、該当する事件の記録は見つけられなかった。51年には京大同学会の主催で原爆に関する初の本格的展覧会「綜合原爆展」が開催され、同年中に起きた学生弾圧「京大天皇事件」の遠因となってもいるようだが、その一連の過程で検挙された者はない)。そんな時代状況だったから……。
外山 熊本の五高でも反米学生が米軍に摘発されたんじゃないか、と(笑)。
星田 米軍のバスに五高の学生が乗せられてどこかへ走り去ったのを見て、そう思った人がいたらしい(笑)。
外山 そもそも熊本にも米軍の駐屯地があったわけですね?
星田 かつては日本軍の駐屯地だったところを接収した。熊本は〝森の都〟とも云われておったところで、たしかに街の中にも木は多かったと思うが、それで米軍基地も〝キャンプ・ウッド〟という名前だった。
外山 もともと熊本は九州の中でも軍の拠点のような色彩が強いところですよね。
星田 第6師団が置かれておったし、第6師団は南京事件の当事者でもあるな。
外山 「健軍」という地名もあって……。
星田 あそこも軍に関係が深い。
M 鎮守府だか何か(熊本鎮台)が置かれたんでしょう?
星田 それは維新直後の話だけどな(笑)。
外山 薩摩が反政府勢力の一大拠点だったから、政府側の最前線基地だったわけです。実際に西南戦争では熊本城での一戦が勝敗の分かれ目になったんだし。
星田 西郷軍は熊本城を包囲して、でも結局は落とせなかったんだね。
外山 健軍には今も自衛隊の大きな基地があるけど、あそこにそのキャンプ・ウッドがあったんですか?
星田 いや、清水町というところ(元は陸軍幼年学校の敷地だったようだ)。……しかし私は授業に出る以外はアルバイトに精を出すばかりだったから、〝印象に残る先生〟というのもあまり思い浮かばないな。
外山 寮生活は?
星田 そっちは大いに面白いこともあったね。五高が発足した時には寮がたしか3つあったはずなんだな。寮歌にも「♪高く聳ゆる3寮の〜」(とまた歌い出す)とあったからね。しかしやがて第4寮というのができる。私がいた頃にはまだ3寮だった。*5)
外山 構内にあったんですよね?
星田 うん。本館の後ろにあって、「習学寮」といったね。私はそこに3年間お世話になった。
外山 最近は準君との付き合いの中でよく話に聞くんですが、〝ストーム〟というのがあったそうですね。
星田 それはあちこちの学生寮でやってたんじゃないかな。
外山 熊大に限らず、伝統ある学生寮にはたいていあったということでした。
星田 普段いろいろと面白くないこととか、そういうことで溜まった元気を発散するような場だな。
外山 要するにバカ騒ぎ的な行事、と。
星田 寮歌である「武夫原頭」なんかを歌いながら、寮全体を踊り回り、駆け回るわけだ。酒なんか1滴も飲んでないのに(笑)。
M シラフでやってたのか(笑)。
星田 カネもないしね。隠れて飲んでたのはいたかもしれないが、禁酒の建前もあったし。少なくとも我々の場合には、酒を飲んで踊ってたという記憶はない。今なら飲む者もおるかもしれんが……。私は当時まだ16歳ですし、五高では16歳が一番若いんだ。旧制中学に5年間行く正規のコースで入ってきた場合が17歳。逆に当時の私のクラスの最年長は25〜26歳でしたね。もともと軍の学校へ行ってたのが、敗戦で軍が解散して、軍の学校もなくなり、大学や専門学校へ入り直さねばならん者がたくさん出たんだ。彼らもワーッと一斉に受験に殺到するんだけど、GHQがこれを警戒した。つまり軍国主義教育を長年にわたって受けてきた者が大量に戻ってくることは好ましくないというので、軍の学校から移入してくる者は何割以下とせよとか、制限をかけたようだな。それで運の悪い人は、入り直せるまでに1年か2年待たなきゃならなくなって、その間にどんどん年をとってしまう。
外山 準君の話によれば、熊本大のストームというのは、寮から藤崎宮だかまでフンドシ1丁で集団で走って往復するんだとか(笑)。
星田 元気のいい者はそこまでやっておったかもしれん(笑)。
M 赤フンなんだろうな(笑)。
外山 たしかそう云ってました。今でもやってるらしいですよ。
M 熊本大学の学生は、星田さんの後輩ということになるんですね。
星田 そうだな。
外山 〝大後輩〟(笑)。
星田 あれだけ食い物がなくても、そういう時には元気が出たんだろう。若いというのは良いものですね。
外山 年に1度のストームで、熊大の寮生の集団が、半裸で市街地まで走って往復するって。
星田 藤崎宮までなら熊大からそう遠くはないけれども……それなりに距離はあるか。藤崎宮にもだいぶお世話になったな。お祭りがあると、行列やら何やらの仕事ができて、旗を持って1日歩くだけでいくらになるとか、そういうこともあった。
M 街を練り歩くわけだ。
外山 最近ちょっと問題になってるらしい〝ボシタ祭り〟という藤崎宮の祭りは、当時もやってました?
星田 あ、何か覚えがある。ボシタ、ボシタは何だったっけ?
外山 熊本に野蛮な祭りがあって……(笑)。
星田 〝滅ぼした、滅ぼした〟だよね。
外山 韓国併合……いや、秀吉の朝鮮出兵か。加藤清正が活躍して、「朝鮮を滅ぼした」っていうんで民衆が盛り上がって(笑)。
M ひでー(笑)。
外山 とまあ、そういう〝説がある〟ということなんだけれども。
星田 だけど秀吉の朝鮮出兵なら、結局は日本は退却せざるをおなかったんだから、べつに滅ぼしちゃいないはずだけどな。負けたのは日本側だ。
M あの時に朝鮮兵に日本上陸をしていただくべきだったな。そしたら〝ボサレタ祭り〟になってて、何の問題もない(笑)。
外山 しかもその祭りの内容というのが、馬に大量の酒を飲ませて〝暴れ馬〟にして、それを街じゅう引き回すっていう……もう何重にも問題になりそうなんだ(笑)。
M えーっ!?(笑)
星田 そんな祭りだっけ? ボシタっていうのは聞き覚えはあるが……。
外山 たしか藤崎宮の祭りですよ(正式名称は「藤崎八幡宮・秋季例大祭」)。
小川 野蛮な祭りだ……(笑)。
星田 あれも朝鮮出兵に関係あるのか、熊本名物に〝朝鮮飴〟というのがあるでしょう?
山本 あ、ありますね。あれは美味しい。
星田 けっこう旨いんだ。朝鮮から伝わった菓子作りの技法なのかどうか知らないけど(朝鮮出兵の際に加藤清正軍が携行していたため、そう呼ばれるようになったらしい)。……もう北海道に来てから、エスペラント関係で熊本に行った時に聞いた話では、韓国のエスペランチストと交流して、「昔は朝鮮半島にも虎がいたそうだけど、今もいるんですか?」と訊いたら、向こうは「昔はいたんだけど、日本から加藤清正という悪い人が来て、殺してしまったそうです」と答えるんだって。加藤清正は朝鮮で虎を退治したという話が伝わっておるもんだからね。
M ……話を本題に戻しますが、九大を卒業するにあたって、進路はどうやって決めましたか?
星田 就職先はお袋に紹介されたんだ。お袋の親戚筋で……。
M お母さんは北海道の出身でしたよね?
星田 札幌の庁立女学校を出ておるわけだからね。女学校の前は道内をあちこち、陸別だとか江差だとか、いろんな学校を回ったらしい。お袋の親父は公務員だったから、道内だけでなくあちこち移ってる。朝鮮に赴任している時にお袋が生まれたそうで、そういうところで朝鮮との縁もあるんだが。
外山 じゃあご両親はどこで出会ってるんですか?
星田 それは札幌だろうと思う。親父は北大の農学部畜産科だしね。母は一番上の子で、その下に女の子が2人おって、2人とも道内で結婚しておる。ウチの母も、北大を出たばかりの頃の父と知り合ったんだろう。
外山 あ、八代は父親の故郷でしたね。ということは、お父さんはもう亡くなってる状況で、お母さんも旦那の実家の方に引き揚げてきてたわけか。
M で、具体的には就職はどんなふうに?
星田 母の親戚の関係で、こちらの方で就職試験を受けられるように準備したと云われて、それが王子製紙だったわけだね。母のすぐ下の妹が、当時の王子製紙の役員をしておった人の奥さんなんだ。それで王子製紙に就職して、任地は苫小牧工場ということになった。
M しかし九大を出て北海道に就職、というのもあまりなかったんじゃないですか?
星田 だけど私の場合はとにかくそういう成り行きでね。そもそも母方の親戚はほとんど北海道にいるんだから。
外山 北海道に来たことはそれまでにもあったんですか?
星田 いや、全然ない。生まれた時には少しいたらしいが、それは覚えてないし。
M まったくの新天地だったんですね?
星田 五高時代に1度訪ねてきたことはあったか。親戚に道庁に勤めてる人がおって、そこに世話になったのが、五高の2年生の頃だったかな。熊本から札幌まで、各駅停車の汽車に乗ってきた。
M えーっ。
外山 何日かかるんですか?
星田 それは何日もかかったよ。途中下車はできるから、時々下車して休んだりもした。東京経由で、全部で何回乗り換えたかな。それで日本の主要幹線の全部の駅を17歳の時に見ておる。学生の身分で急行や特急の料金なんか、とても払えないからね。普通料金だけで、それが学割で半額。
M もちろん寝台列車とかではありませんよね。
星田 そりゃあそうだよ。席にも座れない区間が多かった。当時の列車はギュウギュウ詰めだし、席に座れたのは全体の何分の1かだった。2駅か3駅分を、ほとんど足も床につかないような状態で運ばれたことも何度かあったよ。若かったからそれだけ鍛錬もされてたんだろうな。
M 北海道の印象はどうでした?
星田 やっぱり〝新天地〟という感じだね。とにかく広いなあ、と。九州みたいな狭っ苦しいところから来れば、まず誰だってそう思うよ。当時は連絡船で函館に上がるでしょ。すると駒ヶ岳か、山が見えるよね。そのあたりには人家の影もあまり見えない。広いなあと思う。そこからまた各駅停車で北上していくんだが、列車間中で話しかけてくる人もある。その時にまず驚いたのが、北海道では男も女も同じ言葉を喋るんだってこと。九州だと、方言は方言なりに、男同士の言葉遣い、目上の人に話す言葉遣い、女が男に話す時の言葉遣い、ちゃんと礼儀が決まっておるんだ。ところが北海道の女は、男に話す時の言葉も女同士で話す時の言葉も、全然区別がない。男に対する礼儀を知らん(笑)。まずそれにビックリした。九州から来たら、カルチャーショックだよね。
M それは北海道が文化的に若い土地柄だからだと思いますか?
星田 封建時代がなかったということだという気がした。
外山 日本のあちこちから移住してきた人たちだし、標準語に近いですよね。
M まず北海道内の共通語が必要になったはずだもんな。
星田 それでも九州から来ると、北海道の言葉も言語的には東北方言の一派だという感じを受ける。
外山 たしかに〝何々だべ〟って云ってますね。
M 初めて来た五高の頃って、どれくらい滞在したんですか? 1週間ぐらいはいたんですか?
星田 そのくらいはいた。ひと月までいたかどうか、夏休みのうちのかなりの期間、札幌周辺にいましたよ。あの時に苫小牧にも来たな。母の親戚が苫小牧にもいたからね。苫小牧の海には昆布がいっぱい流れておった。……ちょうど国鉄の人員整理闘争の頃で、あちこちの駅で労働歌が聞こえておったね。
M へー。
星田 狩勝峠のところのトンネルの事故やらで、柚原(ゆのはら)青年行動隊なんかの闘争があってた頃だと思う。
外山 それは北海道の話ですか?
星田 うん。国鉄の人員整理をめぐっての争議が続いておった頃。
外山 そうか、五高時代の話ならまだ40年代だ。
星田 47〜48年頃だね。
外山 まさに〝下山事件〟(49年)とかの時代だ。
星田 そうそう。人員整理問題の影響をあちこちに感じる時期だった。
M 任地を選ぶことはできなかったんですか? 王子製紙と云えば当時すでに全国的な大企業じゃありませんか?
星田 いや、当時は工場は2つ。苫小牧と春日井。愛知県だね。
外山 もともとはどこの会社なんですか?
星田 それは東京都王子村でできたんだよ。
外山 なるほど。今は王子の駅がある……。
星田 うん。
M 財閥系ではありませんよね?
星田 財閥系ですよ。三井系。渋沢栄一やなんかが創業に関係してる。
M 就職した頃は、王子製紙がこれからもっと大きくなるぞ、という時期じゃないですか?
星田 ニュースでは、製紙業はわりと景気がいいように云われておったけれどもね。
外山 当時すでに大きな会社ではあったんですか?
星田 財閥系だもん。
M 北海道では1、2位を争う会社だったはず。
星田 ただし財閥解体でバラバラにされて、その時には「苫小牧製紙」だった。
M ああ、なるほどね。
星田 〝1会社1工場〟だった時代があり、そのうちにだんだん財閥が復活してくる形になって、新工場を春日井に建てることになった時に、苫小牧製紙のままではおかしかろう、昔の王子製紙の名前を復活させよう、ただし昔の「王子製紙」そのままの名前ではなく、「王子製紙工業株式会社」になった。「苫小牧製紙工業株式会社」となっておったものを、「王子製紙株式会社」としたら〝戦前の復活だ〟と云われそうだったからね。
M うーん……(笑)。で、星田さんは最初から電気技師として雇われたんですか?
星田 電気に関わりのある部門で仕事をする、ということで就職した。工学部卒なら当然そうなる。
外山 お母さんはずっと熊本に残ったままですか?
星田 そりゃあ私の下にもまだ何人も子供がおるんだから。
外山 なるほど。
星田 弟が2人と妹が3人いた。
M 星田さんが長男ですか?
星田 そう。妹や弟はまだ八代の小学校や中学校に通っておった。それで私は1人で苫小牧にやって来たわけだ。
M 〝単身赴任〟的な……。
星田 会社が採用したのは私1人なんだから、私が来ればそれでいいんだよ(笑)。
外山 で、以後はずっと北海道なんだ?
星田 うん。
M 定年までずっと王子製紙で?
星田 そうだね。
M 働き始めた当初はどうでした? 面白かったですか? それともイヤなところに来ちゃったという感じでしたか?
星田 そりゃあ新しいところは面白いですよ。新しいところを面白いと感ずるのは、大陸にいた頃からのものだな。それまでに見たことのないものがいろいろあるんだし。九州から北海道に来れば、いろいろ変わる。
外山 礼儀知らずの女たちがいっぱいいる(笑)。
星田 やっぱり内地からこっちに来ると、そう感じる人も多いみたいだ。
外山 苫小牧は当時もうかなり大きな街なんですか?
星田 あそこはほとんど王子の城下町みたいなところ。王子製紙の工場があって社宅があって、社宅からちょっと外れたところに商店街がある。飲み屋や遊郭もある。だけど王子製紙が工場を建てる前は小さな漁村だったんだ。王子製紙が苫小牧に工場を建てるのにもいろんな経緯があったようだけど、いよいよ工場ができて地元の人たちがまず驚いたのは……明治の末のことだからね。工場には当然、発電所から電気が来る。発電所は千歳の、支笏湖のそばに作られた。そこからの電気で工場は回る。社宅にも電気が来て、パッと灯りが点くでしょ。そりゃ明治の人はビックリするよね。何しろ当時の文明開化の最前線の〝電気〟というものが道南に来たのは、おそらく苫小牧が最初なんだ。当時の北海道には札幌電燈株式会社というのがあって、札幌や小樽には電気があった。函館にもあったけどね。大沼の近くに発電所を作って、道内で最初の発電所が、豊平川にあった札幌電燈のものか、その函館のものか、そういう状況(札幌、小樽、函館の順のようである)。苫小牧は何もない漁村だったのが、王子製紙の工場ができてパーッと灯りが点くわけだ。当時は「苫小牧村」だけど、村の人たちが自分たちにも電気を分けてもらえないだろうかと王子製紙に陳情に来て、そこで王子製紙側は「苫小牧電燈株式会社」とか何とかいうものを作って、そこに王子の余った電気を売るから、苫小牧電燈はそれを地元の人たちに売ってあげなさい、ということにした。とはいっても、王子製紙の電気屋が出張って配線の仕事をしたらしいが(笑)。とにかくそんなわけで、苫小牧が電気を使い始めたのは道内でもかなり早い方なんです。
外山 そう云えば30年近く前に「劇団どくんご」が苫小牧で講演をやれる場所を探した時に、どこの公園も全部、王子製紙の土地だったと云ってたな(笑)。
星田 今はどうか知らんけど、苫小牧市役所が建ってるのも王子製紙の土地で、市は王子に地代を払ってたぐらいなんだから(笑)。
M すごい話だ。……電気関係の仕事というのは、発電関係ということですか? それとも変電?
星田 それは何でもです。最初は電気修繕の仕事をしていたな。修繕をやってるうちに、どこにどんな設備があるか把握できるでしょ。その上で次に配電係に回されて、それは電線を張るとか修繕するとかいう仕事だね。やがて本格的な任地となったのが千歳発電所。そもそもこの発電所ができたから、王子の工場も動いたというものだ。千歳第1発電所は、当時でたしか最大2万キロワットの発電出力があってね、明治に建てられた時点で1万5千キロワットの出力で、北海道で1位か2位の発電所だったと思う。
M 支笏湖の水で発電してるところですね。
星田 支笏湖の水が流れ出るのをちょっと止めて、そこを下流へ行くとどんどん谷が深くなってるから、その深いところに発電所を建てたわけだ。百四十メートルの落差ができていて、水力発電としては実にいい条件なんだ。
外山 発電所そのものが王子製紙の持ち物なんですか?
星田 もちろん。
外山 だけど後にはやがて北電のものになるんでしょ?
星田 いや、違う。
外山 へー、そうなんだ。
M 今でも王子のものですよね。
星田 明治の末に建てられたわけだが、その後の大きな難関が、日本発送電という会社への、つまり日本がだんだん戦争に向かっていく過程での、電力事業の統合だね。あらゆる産業を政府が使いやすいように統合していって、電力もそうしようとした。
外山 そうそう。それで北電のものになったんだしゃないかと……。
星田 しかしその動きに徹底的に抵抗したのが松永安左衛門だった。そのあたりの話をNHKが近くドラマ化するらしいが……。
外山 その人が王子製紙の社長とかですか?
星田 王子製紙とはまったく関係ない、電力屋なんだけどね(大正から昭和初期にかけての〝5大電力会社〟の1つとされた東邦電力の社長を務めた)。王子製紙もやっぱりその時に抵抗したんです。千歳発電所は王子製紙の発電所でもあるが、地元の多くの家庭にも使われており、また〝山線軌道〟という紙の原料になる原木を運ぶ鉄道も動かしておって、これも王子製紙だけではなく、地元の人が支笏湖あたりに行って静養する時にも使われておる。つまり千歳発電所は公共的な利用がされておるんだと云って国の政策に抵抗したんだ。それで結局、取り上げられずに済んだ。だから今でも王子製紙の持ち物のままなんだね。
M 革命の暁には接収しなきゃならんな(笑)。
星田 千歳発電所は残ったが、その時に取り上げられてしまったのが雨竜発電所。
M あ、あっちもそうだったんですか。
星田 雨竜発電所も、あれは王子製紙が作ったんだ。
M タコ部屋労働者がたくさん死んでるところ。
星田 まあそういうこともあったな(笑)。朱鞠内湖ですね。人造湖。あの設計地図なんかも王子の電気部に残ってるんだ。
小川 ……そろそろぼくはバイトがありまして。
外山 現代にもこういう苦学生が(笑)。
M じゃあとりあえず今日はこのぐらいにして、明日は苫小牧時代のご活躍について……。
外山 〝高度経済成長篇〟?(笑)
星田 そんなに華々しい話もないと思うが……。
M 思いのほかショボかったりしてな(笑)。
星田 しかしこうして話していると、いろいろ思い出すこともあるね。大陸時代にこんなこともあった。特務機関の人間が近くに住んでたという話をしたでしょ? やはり要衝の地だったから、そんなふうに日本側の特務機関もおったし、中国側も工作員や諜報機関を入れておったようで、我々の同期にいた者にも、そういうことに関係しておった家族があったらしい。同窓会の時にチラッとそういう話を聞いた。私の同期だから当時は小学生だが、そんな子供にまでスパイ活動を手伝わせておったようだ。中国人の子供のような服を着てそこらへんを歩いておれ、と云われてそうしていたというんだ。時にはピストルを持たされて、それもどこかで訓練をさせられたらしいが、どうしても危ない時にはそれを撃って逃げろと云われておったそうだ。その話を私にして2、3年後に死んだな。もっと詳しく聞いておけばよかった。
M その話は初めて聞きますね。
星田 そんなことがあの張家口という町にはあったんだな。
M 「子どもスパイ」っていう小説が書けそうだ(笑)。
星田 ぶらぶらしておって、こういう感じのヘンな奴が現れたら注意して見ておれということだったらしい。それで感づかれて危なくなったら銃を撃って逃げろ、と。実際には危ない目に遭うことはなかったらしいが……。
M 朝ドラにしてほしい(笑)。
星田さんからのコメント
1) この私の母方の祖父「加治孝太郎」は林業畑の人だった。そこで思い出されるのが 浅川巧のこと。11月3日の北海道新聞朝刊の「卓上四季」に
> 大正時代に今の韓国の首都ソウルに渡り、林業を指導した。日韓併合が
> 始まったころである。
と出ているから加治と同じころ同じ仕事にかかわっていたらしい。浅川は朝鮮人に慕われ朝鮮で死んだが今の韓国の教科書にも名が出ているという。
2) このあたり、時間順に整理すると:父 星田勝(まさる)の経歴:
大正12年 北大農学部畜産二 卒業
その後 東北大学医学部に入ったらしい
昭和5年6月~6年11月 東北大学医学部付属医院内 関口外科医局員
昭和7年 熊本県川尻町(現在は熊本市内)で 開業
昭和9年夏 家族を伴い大連経由 満州国熱河省承徳へ。青木病院で勤務
昭和10年11月 中華民国察哈爾(チャハル)省張家口へ 星田医院開業
3) 私が夜勤で警備していたこの施設の 私の聞いていた正式名称は ”Dependent House 86-DA" 「(基地の)付属家屋 86-DA」 ということか。
4) Heroldo de HEL, 北海道エスペラント連盟の機関誌。
5) 「私がいた頃にはまだ3寮だった」は4寮の誤り