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北海道エスペラント連盟の歴史
Historio de Hokkajda Esperanto-Ligo

1.前史−個人研究時代
 1887年(明治20年)、ロシア領だったポーランドで発表されたエスペラントはまずロシア国内に広まった。ロシア極東のウラジオストクでこれを知り、帰国後1906年(明治39年)日本で最初の学習書「世界語」を出したのは長谷川辰之助(作家・二葉亭四迷)だった。
 この年、東京では日本エスペラント協会が 結成され、第1回大会も行われている。翌1907年、北海道で初めての講習会が木村自老によって函館で開かれたとの記録がある。
 その後各地に学習者が増えてくるが、道内では個人的研究の時代がしばらく続いた。

2.組織活動の成長
 明治時代の学習者の使った本はその後古本屋で時々見つかる。1919年(大正8年)三田智大(みたのりたか、当時北大生)は札幌の古本屋で上記の「世界語」を入手し学び始めた。三田を中心に集まった学生たちは2月、北大エスペラント会を結成。道内最初のエスペラント会である。
 翌1920年東京の日本エスペラント学会からの宣伝講習会を札幌で開き多くの参加者を集めて6月札幌エスペラント研究会誕生。続いて開いた講習会も多数の人を集めた。この会はその後解消、更生があったが、1925年2月になって札幌エスペラント会が結成された。
 この間、札鉄、函館、小樽、さらに旭川、釧路、根室などに地方会ができ、全道的組織に発展する準備が整いつつあった。

3.北海道エスペラント連盟結成
 前項のような運動の発展に大いに寄与した団体としてエスペラント普及会 (EPA)がある。これはエスペラントの普及を教義の一つとする宗教団体大本教(おおもときょう)が設立した団体だがこの時期各地で盛んに講習、講演などを行ってエスペランチスト(エスペラントを学び使う人)と協力していた。1932年3月、エスペラント普及会北海道本部は北海道エスペラント大会の開催を道内のエスペラント会に呼びかけ、これによって8月、大本教北海道別院(空知郡山部村、現在の富良野市山部)で第1回大会が開かれた。
 参加者は18名と少なかったがていねいに準備されており、北海道エスペラント連盟(HEL)がここで結成された。

4.運動の発展と戦争の影
 その後各地に地方会もでき、運動は順調に発展して1936年(昭和11年)には日本大会を札幌で開くほどになった。だが、1931年の満洲事変以後日本は次第に戦争のための国家体制作りを進め、エスペラントなど文化運動への監視・統制は厳しくなってきた。
 連盟に入った個人・地方会は当時の「中立」エスペラント運動を進める人たちで当時プロエスなどと呼ばれた左翼・反体制派エスペランチストは別にグループを作り、参加しなかった。また中立運動側も「左翼」の疑いをかけられ警察に監視されるのを避けるために、「赤色分子(左翼)の入会拒絶」を宣言して警察に届けたり特高警察官を会員にしたり、苦労が多かったと当時の先輩は語っている。
 一方プロエス(左翼)のエスペランチストは当時釧路と函館にグループがあったが治安維持法による弾圧でやがて活動できなくなった。中には太平洋戦争中ボルネオに島流しされ苦労した人たちもいる。
 エスペラント運動とは中立の国際語の普及実用に努めること、すなわち国際交流がその中心だから、戦争はその活動の場を失うことを意味した。国内での会合も外国との文通もすべて特高警察の監視下におかれ、戦況が厳しくなるにつれ連盟も活動できなくなり、1943〜1945年(昭和18〜20年)の間は大会も開かれなかった。

5.敗戦・平和−運動再生
 1945年 8月15日、大日本帝国は連合国に降伏。特高警察など日本政府側の規制は消えたが52年まで連合軍(実質は米軍)による占領下におかれた。
 平和回復後のエスペラント運動の立上りは早かった。2ヵ月後の10月、日本エスペラント学会(東京)は機関誌を再刊(ただし占領軍の検閲のため実際に出たのは12月)し、北海道でも各地のグループが活動を再開した。北海道エスペラント大会は占領軍総司令部へ「エスペラントによる国際文通再開許可を求める」決議文を出した。文通は再開されたが1952年の講和条約発効(独立)迄は占領軍に検閲されて C.C.D.(Civil Censorship Detachment:民間情報検閲局)の青いスタンプを押して配達されていた。
 外国同志の来訪もはじめは占領軍関係者だったが、講和後は普通の人たちがだんだん増えてきた。しかし日本人はまだ貧しく、外国に出るのは個人ではなかなか難しかった。北海道から戦後初めて海外のエスペランチストを訪ねた人は実習航海の途中船が米国に立ち寄った機会を利用した小樽海員学校の先生だった。
 毎年世界のどこかで開かれる世界エスペラント大会は1905年の第1回以来ほとんどヨーロッパ、たまにアメリカで開かれており、日本人の参加は少なかった。戦前北海道から参加した人は函館の眼科医と札幌商業学校の先生の2人だけのようだ。敗戦後の日本人は生活に追われて世界大会どころではない、という状態だった。
 ようやく生活に幾らかゆとりが出てきたころ、世界大会を日本で、という計画が立てられ、1965年、東京で第50回大会が行われた。これ以後日本からの世界大会参加者がだんだん増え、この頃では国別参加数順位の上位を占めるようになっている。北海道からも毎年何人かが参加している。

6.北海道での日本エスペラント大会
 戦前1回、戦後2回、計3回の日本エスペラント大会が北海道で開かれた。戦前のは1936年8月、札幌グランドホテルにて。特高警察の監視はあったとしても、平和的な雰囲気で大会が開けたのはこのころが最後だったようだ。翌年旭川で開く予定だった北海道エスペラント大会は日中戦争(支那事変)勃発による軍隊動員のため開けなかった。
 65年の東京での世界大会の3年後(1968年8月)、北海道での戦後最初の日本大会が参加者355人を集めて札幌のホテルアカシアで開かれた。ちょうど北海道百年記念行事の年、北海道、札幌市から助成金を受けてエスペラント文の北海道観光案内を発行できた。
 その20年後の第75回日本エスペラント大会は、大会常置委員会(KKK)の要請を札幌エスペラント会(SES)が受けて1988年8月札幌で開かれ457人の参加者があった。1979年に翻訳出版した「アイヌ神謡集」にアイヌ語文法・辞典を入れて改訂した第2版を大会記念品とした。

7.先住民(アイヌ)文化紹介、北東アジア地域交流、最近の動向
 エスペラントは国際交流のための言葉である。ユネスコの東西文化交流計画に沿って、日本の文学作品もかなりエスペラント訳されている。北海道からも民話翻訳はどうか、と考えたが、ここはもともとアイヌの土地だったから、とアイヌ文化を紹介することになり、知里幸恵編「アイヌ神謡集」を北海道の有志が集まってエスペラント訳し出版した(1979 年初版、1989年第3版)。
 5年ほど前から、大会、合宿などの行事の際近隣の国(太平洋の向こうのお隣り−?米国、沿海州、韓国)からの同志を呼んで交流することが多くなった。また99年10月にはウラジオストクのアジア・太平洋諸国学生会議に訪問団を送り、現地のエスペラント会と北海道エスペラント連盟が機関誌交流を通じて協力関係を結ぶことを合意してきた。日本海を隔てた北東アジアの連携が今動き出そうとしている。
 また最近の動向として、インターネット時代に向け、1998年11月にホームページ、2000年2月にメールマガジンを立ちあげ、北海道エスペラント連盟の活動を、広く一般の人々に知ってもらうための努力も行っている。
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